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夏の女(3) | 秘密のあっこちゃん調査ファイル:

これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
夏子はますます浩二と一緒にいたがるようになり、彼は夏子の大胆で積極的すぎる行動が、かえって怖くなってきた。派出所へも、もう口実などなくても、平然と、
「今度の外回りの時間は何時から?」
と言ってやってきた。
「ちょっと、ちょっと。かんにんしてくれよ。公私混同がすぎるぞ。もう少し、僕の立場も考えてくれないと……」
浩二は、慌てて夏子を追い返した。
ふたりで会っている時は機嫌が良くても、浩二が帰ろうとすると急にぐずりだす。しょげ返り、淋しそうな目で浩二を見て 「帰らないで」と訴える。
そんなことが続くと、さすがにのんきに構えていた浩二もあせりだしてきた。
夏子夫婦が時間の問題であるのは、誰の目にもあきらかだった。同時に、
「これは、ちょっとまずいなあ」
そんな思いも次第に大きくなっていった。
夏子が離婚するにしても、自分のためにそうなったというのは寝覚めが悪い。
こんな関係をいつまでも続けていてはダメだ。一緒になれる訳でもないんだし。どっちにしろ夏子の方は、始めから単なる〝遊び″だったんだから……。
今のうちに手を切ろう。
ゴタゴタに巻き込まれて、警察官としての経歴に傷がつくのも怖かった。
しかしいざ夏子の顔を見ると、面と向かって別れの言葉を切り出すことはできなかった。結局夏子のペースのまま、ずるずると時間を過ごしてしまう。
そうこうしているうちに、故郷の鹿児島から父が急死したとの知らせを受け取った。
一人息子の浩二は、警察を辞め、すぐに一人残された母のところへ戻った。
父の友人のつてで市役所にも就職が決まった。
夏子からは三日にあけず手紙が届き、電話も頻繁にかかってきていたが、浩二に正直なところほっとしている面があったことはいなめない。
「鹿児島と名古屋じゃ遠すぎる。夏子もあきらめるだろ。これで自然に別れられる」
半年もたつとガールフレンドもできた。福祉事務所に勤めるおとなしくていい子だ。
「この子と結婚しようかな」
そう思い始めていた。夏子のことは忘れかけていた。
鹿児島での生活も、やっと慣れ始めた秋の日、浩二が市役所の机で書類に目を通していると受付の女の子がニヤニヤしながら近づいてきた。
「白田さん、ご面会の方が来られています。すごくきれいな人」
最初、スナックのママが集金に来たかとも思ったが、玄関で待っていたのは夏子だった。
彼女は鮮やかなヒマワリの花をあしらったワンピースを身につけ、地味な市役所のロビーで、一人視線を集めていた。浩二の顔を見るやいなや、大きくほほえみながら駆け寄ってくる。
「びっくりした?」
「-一体どうしたんだ?」
浩二のうろたえた顔をのぞき込み、夏子はいたずらが成功した子供のように笑った。
「鹿児島の黒ブタを安く仕入れにいくって出てきたの。口実だけどね」
そう言ってペロリと舌を出す。そうした無邪気なところはちっとも変わっていなかった。
とにかくここでは目立ちすぎる。ほうっておくわけにもいかず、浩二は仕事を抜け出してとりあえず実家に夏子を連れていった。事情を知らない祖母は、
「名古屋では孫が大変お世話になりました」
と夏子にあいさつをしている。
浩二は彼女の顔を見た瞬間から、夏子が余計なことを言いだしはしないかと、はらはらしていた。今は静かに毎日を過ごしているのだ。
「名古屋から来たんじゃあ、疲れているだろう。しばらく横になっているといい」
浩二が仕事に戻ろうとすると、夏子は平然とした顔で言う。
「ううん、全然疲れてない」
浩二はやむなく職場に戻るのをあきらめ、その日は夏子を城山公園や桜島へ案内することにした。わざわざ来てくれたものを、むげにはできなかった。
桜島は一点の曇岩ない晴れ渡った秋の空へ、もくもくと噴煙を上誓いた。
夕方になっても帰ろうとしない夏子に、浩二は素知らぬ顔で聞いた。
「何時の列車に乗るの?」
返事はなかった。もう一度尋ねると怒ったような顔で浩二を見た。
「名古屋へは帰りたくない」
「旦那や子供がいるのに、そんなこと言ってどうする。とにかく帰らないと!」
「いや、もう名古屋には絶対に帰らない!」
キッパリとした言い方だった。
「それは困る」とも言えなかった。夏子の気持ちは十分わかっているが、このまま鹿児島に居すわられるのはもっと困る。
「いずれ帰らきやいけないんだったら、少しでも早く帰った方がいい」
いやがる夏子を無理やり鹿児島駅へ引っばっていくと、切符を買って有無を言わさず列車に押し込んだ。
帰ってすぐに夏子から電話があった。
「浩ちゃんはひとつも私の気持ちをわかってない。私は好きで好きでたまらないのに。主人とはもう離婚するつもりよ。だから、だから一緒になって!」
夏子は受話器の向こうで泣きながらわめいた。そして、また泣いた。
何を言っても、耳をかしてくれない。
電話はそれからも毎日のようにかかってきた。手紙は前にも増して頻繁に届くようになり、名古屋の消印の手紙を受け取るたびに、母がいぶかしげな顔で浩二を見るのがわかった。
浩二の心は揺れていた。
夏子のことは嫌いではない。彼女と結婚すれば、それなりにうまくやっていけるだろう。
しかし、彼女には家族があるのだ。人の良さそうな旦那さんや、いつもニコニコとごちそうを作ってくれたおばあさんの顔が浮かぶ。家に遊びにいっていた時、小さな子供たちが恥ずかしそうにこっちを見ていたっけ……。あの一家を壊してまで一緒になる勇気が、覚悟がおまえにあるのか?
それに母が何と言うか。
世間体を考えれば老いた母親がきっとどんなにか悲しむだろう。それを思えば、やはり夏子と結婚することなど考えられなかった。
浩二は夏子からの連絡を一切無視した。
電話には居留守を使い、手紙は封を切らなかった。
これが結局は夏子のためになる。そう思い込むようにした。
夏子からの連絡も次第に遠のき、ポッリボツリときていた手紙もまったく来なくなったころ、
浩二に離島への勤務命令が出た。これを機会に市役所を辞め、母の実家がある大阪で、心機一転新しい暮らしをスタートさせることにした。
最近になって、浩二は今さらのように夏子のことを思い出す。
「今どうしているんだろう」
「娘さんたちは大きくなっただろうなあ」
手ひどい別れ方をしてしまったことは、心のどこかでずっとひっかかっていた。若かったから、
と簡単には言い訳できない。身勝手なことをしてしまった。
たった二年ばかりのつきあいだったが、自分の人生の中で、あれだけ激しく思ってくれた女性は夏子以外にいなかったと、今なら思える。
浩二はもう四十代も半ばを過ぎている。
「もう色恋沙汰でもない。大人同士として彼女と会ってみたい」
何かにつけ、そう思うようになっていた。
「初恋の人探します社」という関西の探偵社の広告を見たのは、そんな矢先のことだった。
目の前にはふたりで空けた徳利が並んでいる。
何度目かの酒の追加をしながら、浩二はほんのりと赤らんだ夏子の横顔を見つめていた。
会うなりあんなことを言ってしまったが、夏子はやはりちっとも変わっていなかった。相変わらず美しかったし、いるだけでその場が華やいだ。快活な話し方もあの時のままだ。
「今は娘二人の結婚のことで、頭がいっぱいよ」
夏子の話を聞きながら、浩二は今まで抱え込んできた心のもやもやが晴れていくような気がしていた。
謝罪の言葉は必要なかった。たとえ浩二が口に出したとしても、夏子はきっと例の笑顔で笑い飛ばしてくれるに違いない。今はただ、あの青春の楽しかった日々だけが、夏の太陽のように明るくふたりの心を照らしていた。
「何か困ったことがあったら、相談くらいには乗らしてくれよ」
夏子が注いでくれたちょこを口に持っていきながら、浩二は言った。
会えてよかった。本当によかった。
店内の有線放送から、タイガースの「花の首飾り」が流れてきた。
「いやあー、懐かしい!」
夏子が声を上げた。
ふたりはしばらく黙ったまま、そのメロディーに聞き入っていた。
<終>

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