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中国で出会った陸軍少佐 | 秘密のあっ子ちゃん(4)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
昭和十七年ごろに消息が分らなくなった陸軍少佐を探してほしいと、電話で依頼してきたその男性の声は老人のものではなく、まだ若々しいそれでした。
初め、戦友を探してほしいという類いの依頼かと思っていた私は、その声の若さに気づいて尋ねました。 『えーと、ちょっと待って下さい。失礼ですが、お宅様のお年は?』
『四十八才です』
『では、お生れになる前の話なんですネ』
『はい、実はこれは私の伯母が会いたい人の話なのです』
それで、話の筋は飲み込めます。
彼の伯母は、昭和十五年から十七年にかけて中国大陸にいました。そこで、当時陸軍少佐だった彼と出会ったのだと言います。彼は明治四十年生れ、当時は三十四才で、ご健在なら八十六才になられます。依頼人の伯母さんは、当時二十二才、現在七十四才なのだそうです。
彼女は、中国でこの陸軍少佐に大変お世話になったのですが、戦争の激化のために、昭和十七年から二度と会うこともなく現在に至っていました。彼女は、常々、生きているうちに今一度会ってお礼が言いたいと依頼人に言っているのだそうです。
伯母さん(74才)の代わりに依頼してきた男性(48才)の話は続きました。 『伯母は、常々、昭和十七年ごろ中国でお世話になった陸軍少佐に今一度会って、お礼が言いたいと言っています。とにかくにも、まずは生死を知らせてやりたいのです。ご健在なら住所を、不幸にして亡くなっておられたら、墓地と出生地・本籍地を調べてもらえませんか?』
『出生地・本籍地もですか?』亡くなっておられた場合、何故出生地や本籍地まで必要なのか、私は不思議に思って尋ねました。
『ええ、それは是非調べてほしいのです』
私は、“何かあるな”とは思いましたが、その時はそれ以上突っ込んでは尋ねませんでした。
『で、伯母様はその方に大変お世話になったと言うことですが、どんなおつながりだったんですか』
『…。それは必要ですか?』
『ま、できれば。調査がやり易いですから』
『その辺のことを話すのは伯母が嫌がりますので…』
その日は、話はそこで途切れました。しかし、翌日、依頼人から再び電話が入りました。

『昨日、お尋ねの件ですが、伯母(74才)は昭和十五年から十七年の二年間、中国で芸者をしていたんです。伯母はそのことを恥じて、言うのを嫌がるのです』
『そうですか。お年を召されている方の感覚は今とは違いますから、伯母様はそう思われているのかもしれませんが、私は恥ではないと思いますけど…。とにかく、調査は既に開始していますし、判明に向けて全力を尽しますので、ご安心下さい』私はそう答えました。
人探しの調査の結果、残念なことに彼は昭和十九年、南方戦線で戦死されていました。そして、死後、中佐になられていました。軍の記録が無事残っていたため、それだけではなく出生地も明らかになってきたのでした。 そこまでは、思ったより早く判明できたのですが、墓地の所在が杳として上ってきません。彼の本籍地や出生地近辺の寺を総ざらえに当たっても、彼らしき人物は過去帳には記載されていないのです。
四苦八苦の末、ようやく入隊地近くの寺で彼の墓所があることを突きとめることができたのは、依頼を受けてから一ケ月半が経っていました。
そのことを依頼人に報告した私は、またもや意外な事実を聞くことになったのでした。

私は、依頼人の要望通りの項目を報告しました。その時、彼は私に尋ねたのです。
『伯母は早速、墓参りに行きたいと言っていますが、ご遺族の方がいらっしゃるかどうかは分りませんでしょうか?』
『調べることは可能ですが、それは、またどうしてですか?』
『実は…』と依頼人が語り始めた話に、私は『何か事情があるとは思っていたけど、なるほど、そういうことだったのか』と納得したのでした。
彼の話によると、伯母さんは若いころ芸者をされていました。そのことを彼女自身は非常に恥じているらしいのですが、それはともかくとして、昭和十五年に中国に渡り、そこでその陸軍少佐と出会ったと言います。二人は次第に芸者と客の立場を超えて深く愛し合うようになり、昭和十七年、彼女は彼の子供を身ごりました。ところが、我が子の出生を待たずに、彼は南方への転戦命令を受け取ったのでした。彼を見送った彼女は、出産のために内地へ戻りました。そして、その後、戦後四十九年たっても、彼とは一切連絡が取れませんでした。彼女が手を尽して探しても、風の噂一つも入ってこなかったと言います。
『生まれた子は女の子で、僕のいとこにあたります。いとこはもうすぐ五十才になりますが、その年になるまで、父親の顔を知らないのです。それに、せめて伯母が元気なうちに再会させてやりたくて、調査を依頼したのです。』依頼人は言いました。そして、こう続けたのでした。『彼が戦死されていると分った今、せめて遺族の方にお会いして、彼の最後の様子を伯母に聞かせてやりたいのです』
私は、すぐに彼の墓所がある寺の住職さんに会いに行きました。そして、依頼人の伯母さんとその墓に眠っている彼とのいきさつを詳しく話したのでした。  もうすぐ七十才になろうかと思われるその住職さんは、私の話をじっと聞いて深く頷ずかれながら、言いました。『弟さんご夫婦がご健在で、彼の墓は弟さんが供養されているんですよ。私から弟さんに連絡を取ってあげましょう』
私はその住職さんの厚意に深く感謝して辞し、連絡が入るのを待っていました。 それから一週間後、住職さんから電話が入り、こう話されました。
『弟さんに話したところ、“身内がいた”と大そう喜こばれ、是非お会いしたいということでした。お会いされるのは当寺では如何ですか?一緒に彼の墓参りをなさったらいいと思います』
父の顔も知らずに育ったいとこと、五十年間再会を願ってきた伯母のために、せめて彼の最後の様子を聞かせたいと、依頼人(48才)は彼の遺族と連絡を取ることを望みました。
そして、彼の墓所がある寺の住職さんのご厚意によって、唯一残された遺族である弟さん夫婦と連絡が取れたのでした。
弟さんは住職さんにこう言ったそうです。
『兄は若いころ一度妻を持ちましたが、一年もたたずに病気でなくしております。子供はおりませんでした。以来三十六才で戦死するまで、一人で通しました。けれど、なかなか男っぷりのよかった兄のこと故、『もしや』という思いはずっと持っていたのです。私達はこの五十年ずっと、どこかで兄が残した身内がいるのでは、と思っておったのですよ。やっぱりいましたか?私達には子供がないので、姪ができ、親せきが増えることは本当に嬉しいことです。早く会いたいです』
住職さんのお骨折りで、依頼人の伯母さんといとこ、彼の弟さん夫婦が対面する日がやってきました。
さわやかに晴れ上った五月のある日、二つの家族は彼の墓の前で、半世紀の時を超えて、この時対面を果たしたのでした。
<終>

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