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太陽にみちびかれ(3) | 秘密のあっこちゃん調査ファイル:

これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
翌日、偶然にもより子たちは、流れの水をひそかに汲みにきた同僚の男子社員と出くわして、山中に潜んでいた会社の人間と合流することができた。その同僚に出会った時、どれほど救われた思いをしたことか。昨夜のあの特派員のろうぜきには、もう耐えられなかった。
幾日かはソ連軍のサーチライトから身を隠しながら、山中で浅い眠りを取り、渡河の機会をうかがっていた。四日目になってついに食糧が底をつき、もう猶予がなくなってきた。その日の夜半、月が隠れるのを待って、いよいよ豆満江の渡河を決行することとなった。
早暁、泳げないより子は、機関銃の音がこだまする中を、会社の男子社員や関東軍の残兵に助けられて、何とか無事に豆満江を渡り切ることができた。
歩きに歩いて延吉に到着し、やっと家族との再会を果たせたが、より子を待っていたのは過酷な収容所生活だった。
その収容所生活もひと月半ほどで解放されると、より子たち家族は祖国への引き揚げの機会を待つため、再びコンシュンへと戻った。しかし、180度立場が逆転した日本人の生活は悲惨の一語に尽きた。
昭和二十一年の新年を四日後に控えて、より子の父は体中をしらみに食いつくされ、畑で拾った小豆九粒を口に入れたまま、苦力用の土小屋で六十八歳の生涯を閉じた。餓死であった。続いて甥が疫病で死亡し、兄嫁は息子が眠るその地から去り難かったのか、残留婦人として中国に残った。
より子はただ一人、朝鮮人パーマ屋、中国人の銭湯屋、馬車屋、中国人要人宅などの住み込みをしながら生き抜き、忘れもしない昭和二十一年十月二十一日、ついに第一次引き揚げ船に加わって、祖国日本の地を踏むことができた。
より子は東満の国境の戦野をさまよっていた時、ソ連兵に見つかることもなく豆満江を渡り切ったこと、またその後の悲惨な生活の中でも何とか生き抜いて、無事に日本へ戻ることができたのは、すべて隆の導きだったと信じている。
あれはまだ中国にいたころのことである。
もうすぐ引き揚げが始まるという夏の終わりの午後、より子が日本人会の前の通りを歩いている時のことだった。
普段は人通りの多い所なのに、その時に限ってなぜかパタリと人けが途絶え、より子は目の前に薄い本が一冊、ページを広げたままの状態で落ちているのを見つけた。
紙類は当時どんなものでも貴重品だった。
「しめたっ」
より子は拾い上げ、開かれたページに何げなく目をやった。どこかの大学の学報らしかった。
「かかる東満の果てまで学報ご恵送にあずかり厚く御礼申し上げます。お陰様で、いながらにして大学の近況に接することができ、懐かしさでいっぱいです。小生、益々元気で軍務に精励し………‥……・昭和十四年商学部卒 小幡隆」
より子はわが目を疑った。
それはまさしく、隆が母校のW大学へ宛てた戦地便りであった。
単なる偶然とは思えない。まるで隆がより子のためにここへ置いてくれたかのようだった。
より子は隆の手紙の部分だけを切り抜き、古いセルロイドの定期入れに入れてひもを通し、お守りにした。日本に上陸するまでずっと首にかけ、決して離さなかった。そのおかげか、ひと月半ほどの引き揚げ行進中、幾度も危険な目に遭いながらも、ただ一人、無事故郷に戻ることができたのだ。
より子は確信していた。
隆さんが守ってくれたのだと。そしてこれからも守ってくれるだろうと。
そう思えば思うほど、あの特派員に隆の遺影を足蹴にされたことが許せなかった。
「自分のうかつさから、故なく足蹴の侮辱を加えられた隆さんの口惜しさを、何らかの形でそそぎ、慰霊しなければ、来世で会わせる顔がない。
これが成し遂げられない限り隆さんも鎮魂できないだろうし、私にも心の平安が訪れない」
しかしより子は、隆の墓の場所も連絡すべき親族のことも、何一つ知らなかった。
隆をしのびながらも具体的に何もできず、申し訳ないと思いつつ、四十年の歳月が過ぎていった。
より子は還暦を迎えたのを機に、終戦の折りにかかわったあの特派員と、その時の自らの想いをテーマに自分史を書いた。書き上げた時、より子の感慨はひとしおであった。
「絶対に生きて帰る」
あの時の怒りこそが、より子の原動力になっていた。隆の供養を果たすためにどうしても生きて帰らねばならないと、それを支えに生き抜いてきたのだ。
ある時、より子は隆の母校が社寺建立の際の瓦寄進になぞらえて募金を開始したと聞いた。あのお守りとして持っていた学報のお礼にと、隆の冥福を祈って、心ばかりの寄付を届けた。折り返し、校友会の好意で同窓会名簿が送付されてきた。より子はそれで、隆が卒業した旧制中学校の名を知った。
さらに琵琶湖のほとりに位置するある門跡寺院に、隆とその子の永代供養を願い出た。戒名も新たに授与していただいた。
しかし、そういうことを一つ一つやり遂げながらも、より子の心の中では、
「やはり隆さんの本当のお墓にお参りしたい」
という思いが日に日に膨らんでいった。
ある日、夫が「初恋の人探します社」という関西の探偵事務所の存在を教えてくれた。ラジオで聞いたのだという。
夫の心づかいが、涙が出るほどうれしかった。その優しさと心の広さに感謝せずにはいられなかった。こんな素晴らしい夫と巡り合わせてくれたのも、隆の啓示だったかもしれない。そんな思いすらわき上がってきた。
本堂では、先ほどから入念な読経供養が続けられている。より子はその間中、泣き通しに泣いた。
さまざまな想いがより子の胸に去来していた。
二十九歳という短かすぎる一生を、一気に駆け抜けていった隆。光を感じることもなく、逝ってしまったわが子……。
四十五年前に、大根を間引いていた隆の姿が、ふたりで歩いたコンシュン川のほとりの景色が、野中の一本道で見せた懐かしい笑顔が、そして告別式の日の情景が、今もありありとまぶたの奥に映し出される。
小幡家は、隆の墓を建立した叔母が亡くなってからは断絶したと、人探しの調査報告書に記載されていた。 より子が身ごもった時、隆は「僕の長男だ」とたいそう喜んでくれたが、今から思うとそれは
「自分が戦死したあとの先祖の供養」ということも考えてのことだったのかもしれない。
そうした隆の心境を慮ると、また胸が締めつけられるようだった。
より子は寺の住職に隆の永代供養を願い出た。ちょうど隆が逝った時と同じ年ごろの若い住職は、より子が話す事情に深くうなずき、永代供養を快く引き受けてくれた。
住職に伴われ、より子は再び隆の墓所に行った。彼はお塔婆を上げ、線香を一束たいて、再び入念な読経を行った。
「これでやっと、胸をはって向こうの隆さんに会いに行ける……」
より子は数球を待った手を合わせながらもう一度静かに日を閉じた。
<終>

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