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看護婦さんを探したい | 秘密のあっ子ちゃん(16)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
二十二才の彼の依頼は、半年前に入院した病院の看護婦さんを探してほしいというものでした。
これまでにも当社に寄せられてくる人探しの調査依頼の中には、自分が入院していた時に親切にしてもらった看護婦さんを忘れられず、探してほしいという依頼はかなりありました。私は今回の依頼もその中の一つと思って調査を進めていたのです。
しかし、彼の場合、その看護婦さんに恋をした、憧がれた、というこれまでの依頼と少し違っていました。 それは、彼女の連絡先が判明し、報告の時に初めて当社にやってきた彼の話で分ったことなのですが…
彼は右手の手首と右足が悪く、少し歩行が困難でした。日常生活には支障はありませんでしたが、就職時にはなかなか自分の思うところに採用が決りませんでした。やっと就職が決った所も、「動作が鈍い」と言われ居づらくなったりして、長く勤めることができませんでした。今は新聞配達所で真面目に働いています。彼は詳しくは語りませんでしたし、私も突っ込んで聞きませんでしたので、彼の口から直接聞いた訳ではありませんが、学校にしろ職場にしろ、彼は「差別」というものを感じていたようです。 しかし、その看護婦さんだけは違ったと言うのです。
以前より胃の痛みは感じていました。しかし、朝刊と夕刊の双方を配らなければならない彼(22才)は、なかなか病院へ行く暇がありませんでした。あした、あしたと思っているうちに、朝刊に広告を差し込む作業をしている時、とうとう倒れてしまったのです。昨年の春のある日の明け方のことでした。
胃潰瘍でした。幸い、手術はしなくても済みましたが、彼はそのまま一ケ月入院しなければならなくなりました。
その時担当してくれたのが彼女でした。彼女は二十一才で、目が大きくておでこの広い、どことなく高橋由美子に似た人でした。まだ準看だということは、白衣ではなくブルーの制服を着ていたので一目で分りました。
「いつ、正看になるの?」彼は聞きました。
「もうすぐよ。四月末に発表があるの」彼女はそう答えていました。
彼女は彼にとても親切でした。職務上からくる親切だということは彼も十分理解していましたが、これまでの二十二年間の人生の中でこれほど他人に優しく接してもらったのは初めてのことでした。
次第に彼女の存在が彼にとって心の支えとなり、生きていく「元気」となっていったのでした。
彼女(21才)の優しさに、たわいもない雑談さえも彼(22才)の「元気」の源となっていきました。 彼は入院を余儀なくされたにも関わらず、準看である彼女と巡り合わせてくれた胃潰瘍に感謝するほどでした。
彼は、自分の右足と右手首の障害に対してこれまで感じてきた差別を少しずつ彼女に話し始めました。そういうことを人に話すのは初めてでした。
彼女は黙って根気よく彼の話を聞いてくれました。彼はそれだけで十分でした。通り一遍の慰めや励ましよりもずっと信頼できました。 「この人は他の人と違う!」彼はそう感じたのでした。
一ケ月が過ぎ、彼は退院しました。
それから三日目の四月二十七日付の市の広報新聞に、正看になった人の名前が発表されていました。彼女と同姓の人は五人いました。おそらく彼女はこの五人の中に入っているはずです。彼は名札で彼女の苗字は知っていましたが、名前までは聞く機会を失っていました。
「彼女はどれだろうか…」彼は思っていました。  二週間後、病院へ薬を受け取りに行ったついでに、彼はナースステーションをのぞいてみました。ところが、彼女の姿が見当たりません。顔見知りの看護婦さんに尋ねると、「四月末で退職した」という答えが返ってきました。
もう一度会いたい思いは募っていきました。せめてもう一度だけ会って、正看合格のお祝いを言いたい、そして、あの元気が出る優しい微笑を見たいと思いました。
次に薬を取りに行った時、彼は思い切って婦長さんに彼女の連絡先を教えてほしいと頼みました。ところが、「プライバシーの問題があるから、そんなことは教えられません!」ときつく叱られてしまったのです。
彼は途方にくれてしまいました。切ない日々が続いていたある日、新聞配達所の同僚のおじさんが、「それやったら、ここの探偵事務所に頼んでみたら?」と当社のことを教えてくれたのだそうです。こうして、彼が依頼してきたのは昨年の秋のことでした。
とにもかくにも、スタッフが病院へ聞き込み入りました。しかし、案の上、ガードがきつく、プライバシー云々という理由で、頑として彼女のフルネームや連絡先を教えてくれません。婦長さんはもちろんのこと、事務局でも同じ結果でした。同僚の看護婦さんに聞き込んでも、「そういうことは教えてはならないことになってますので…」と逃げられてしまうのです。やむなく、病院に出入りしている家政婦さんまでにも聞き込みました。しかし、彼女達はそういうことはまるで知りませんでした。
次に、私達は何校かの看護学校を当たりました。が、どうした訳か、新聞に出ていた五名の人の該当者が全くないのです。
万事休すとなって、私はもう一度病院に出向きました。すると、今度は、意外なことにすんなりと彼女の連絡先を教えてもらうことができました。そのコツは企業秘密なので、残念ながら明らかにできないのですが…
報告書を当社に取りにきた彼は、帰るとすぐに彼女に電話を入れました。
彼女は、大勢の中の患者の一人に過ぎない彼をよく覚えてくれていました。それに気をよくした彼は、「もう一度会いたい」と申し出たのです。彼女はいつものように優しく、しかし「それはたぶん無理」と答えたのでした。そこで彼は、「また電話してもいいか」と尋ねました。彼女の口調は相変わらず優しく丁寧でした。しかし、その返答は「できたらやめてほしい」だったのです。
彼は私に相談してきました。
「彼女は、僕が単なる恋愛感情では『会いたい』と言ったと思っていると思います。彼女が僕を勇気づけてくれたことに感謝しているということは一言も言えませんでした。僕の言葉足らずで、自分の真意が伝えられなくて残念です」彼はこう言いました。そして、もう少し自分の気持ちを整理したら、私から彼女に自分の真意を伝えてほしいのだが、とも言いました。
私は彼の心の痛みを考えると、彼の淡々とした口調が却ってつらく感じました。 それから彼からの連絡は入りませんでした。私も忙しさにかまけて、彼のことはそのままになってしまっていますが、彼がどういう風に気持ちの整理をつけたのだろうかと考え込んでしまいます。そして、彼の純粋な気持ちと傷心を思い出すと、今でもやはりつらくなるのです。
<終>

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