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元諜報員の初恋(3)| 秘密のあっ子ちゃん(227)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

常に『死』と隣り合わせの諜報員としての任務を負っている依頼人(当時20 歳)は、最愛の彼女に対してどうすることが彼女のためなのかを思い悩んでいました。
しかし、南方での『玉砕』が相次いで報じられるようになると、彼は残された時間はあまりないと痛感しました。
ある日、彼は意を決して彼女を母親と伯父に引き合せ、一緒になりたいと告げたのです。
『あんたら、もう子供ができるような仲なんか?』
伯父が開口一番言ったのは、その言葉でした。
『そんな人に聞かれて恥ずかしいことは何もしてない!』
彼は怒りに震える手を握りしめて反論しました。彼女はじっとうつむいたまま耐えていました。
『それならちょうどよろしい。あんたら別れなはれ』 母が言いました。『あんたみたいな、何をしてるか分かれへん子が今、所帯なんか持ったら、私さえ養うかどうか分かったもんやない!私は許しまへんで』
『それやったら、話が違うやないか。ええ娘やったら相談にのってやると言うから連れてきたのに!』
『いや、やっぱり二人ともまだ若すぎます』
母と伯父は頭から聞く耳を持っていませんでした。
親への『孝』が何よりも重んじられた時代でしたが、二人の仲を侮辱する母と伯父の言葉に、依頼人は煮えたぎる怒りを覚え、育ての『母』を捨てて彼女と一緒になる決意を固めたのでした。
と、今までうつむいたままじっと耐えていた彼女が、突然『失礼します』とだけ言って、ハンカチで目頭を押さえ、玄関へ走っていきました。
彼が痛む足をこらえながら追っていくと、彼女は自宅の近くの空地で泣いていました。
『すまんかった。あんなひどいことを言われるなんて、予想もしてなかった。 今日のことは忘れて、僕と二人だけの生活を考えてほしい。ついてきてくれるか ?』
彼女はただ泣いているだけでした。
その時突然、警戒警報のサイレンが鳴り始めたのです。
『どんな辛いことがあってもついていくつもりやったけど、私、お母さんのあの言葉はどうしても忘れられません。もう自信がない・・・』
『だから、母のことはもういいから、僕に命を預けてくれんか!』
今度は空襲警報が鳴り響き始めました。
『ごめん!かんにんして !もうついていけません !』
彼女は崩れるようにしゃがみ込み、激しく泣きました。
彼女が彼の真意を理解し得たとは到底思えませんでしたが、もはや時間はありませんでした。空襲警報は非情に鳴っています。
彼は彼女を抱き起こし、 自分のハンカチで彼女の涙を拭って、急いで彼女を自宅へ送り届けたのでした。
警報がけたたましく鳴り響く中で、彼は彼女が自宅へ入るのを見届けながら、
『僕は明日の命さえ分からない任務がある。君はいつまでも幸せに生きてくれ』と祈っていました。
彼が彼女の姿を見たのは、それが最後でした。昭和十九年、月の美しい秋の夜でした。
予想通り、彼はその後すぐに中国大陸での任務のために、日本を離れました。
戦争が終わった時には、彼は命こそ永らえましたが、足の傷以外にもほとんどの視力を失っていました。
諜報員としての立場上、 軍籍を持つことができなかった彼は、軍人としての職務を果たしても、戦争で障害を受けても、戦後、恩給を受けることはできませんでした。
終戦と同時に価値観が一変し、彼は自分の前半生が全く報われないものであったと痛感しました。
彼は、自分の生命は終戦の『あの日』に捨てたのだと考えていました。海軍の教育が、諜報員としての訓練が、彼にそう思わせていました。戦後の日々は、自分の人生の『おまけ』だと。
しかし、彼は生き抜きました。戦前、戦中以上の苦労を味わいながらも、いつか彼女に再会できることだけを支えに、懸命に生き抜いたのでした。今なら、彼女に彼の『真意』を話すことができるのです。
彼は独力で彼女を探し始めました。が、その行方は査(よう)としてつかめませんでした。私達が彼の依頼を受け調査した時には、彼女は何と十年以上も前に亡くなっていたのです。
私は報告書を作成しながら、涙を抑えることができませんでした。彼にとって彼女との再会は、七十年の彼の人生と同じくらいの重みを持っていることを、私はよく分かっていました。
私は、彼がこの世では二度と彼女に会うことはできないと知れば、生きていく気力を失うのではないかとさえ心配しました。
報告書を手渡してからひと月後、私は彼から一通の手紙を受け取りました。
『・・・心の底まで理解して下さる助言に、心洗われる感動で胸が一杯になり、過去、未来、そして現在を正視するための『仕切り』をこ立てるべきだと感じるようになって参りました・・・』
私は、1cmあるかないかの彼の視野で打たれたそのワープロの手紙を見て安心しました。彼が過去の思い出を大切にしながらも、自分の人生をもう一度スタートさせてくれるだろうと感じたからです。
私は、彼が最後のその瞬間まで、生き生きと輝いて過ごしていってほしいと、今も心から願ってやみません。

<終>

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