これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
昭和二十年八月十六日、爆破された豆満江の橋を目前にして、途方にくれていた彼女たちの前に再び現れたその特派員は、『無事渡河させてやる代わりに、俺の指示に従え』と言ってきました。
彼女たちがそれに同意すると、特派員は、『これから食糧は俺が分配する』と、彼女たちが持っていたわずかばかりの食糧と軍から支給された札束を取り込みました。
そして、彼女が肌身離さず身につけていた婚約者の遺影を目ざとく見つけると、『そんなもの持っていると、いざという時、言い訳できないぞ!』 と言い、彼女の手から、写真をひったくり、『あっ』 と言う間もなく、細かくひきちぎってしまったのです。さらに、そのちぎった写真を地面にたたき落とし、泥のついた軍靴で踏みしだいたのでした。
『何するんですか!』
『なにいっ!』
特派員は抗議する彼女を睨みつけました。いくらソ連兵に見つけられないためとは言え、彼女は彼の遺影を足蹴にした特派員を許すことはできませんでした。
そして、豆満江を渡河するためとは言え、彼の遺影を足蹴にするような人間を、一瞬でも信じた自分を悔いました。
結局、彼女たちは、翌日、ひそかに水を汲みに来た同僚の男子社員に出会うことができ、会社の人たちが潜んでいた山中に合流することができました。そして、一週間後、会社の男子社員や関東軍の残兵の手助けで、無事、豆満江を渡ることができたのです。翌年、第一次引き揚げ船で、 彼女は無事、日本へ戻ることができました。
その過程で、彼女は父を失い、つらい収容所生活を経験せざるを得ませんでしたが、何とか無事に祖国へ戻れたのは、亡き婚約者の導きだったと今でも信じています。
しかし、それだからこそなおさら、彼女は彼の遺影を足蹴にされるのを許してしまったということに、ずっとわだかまりを感じ続けてきました。『自分のうかつさから、故なく足蹴の侮辱を加えられた彼の口惜しさを何らかの形でしのぎ、慰霊しなければ、向こうの世で合わせる顔がない』彼女はそう思い続けてきたと言います。
彼女は彼の本籍地も親族のことも何一つ知りませんでした。満州から引き揚げてきた時、彼とのつながりは切れてしまったのです。
「慰霊しようにも、彼の墓すら分からない状態でした。
数年前、彼女はその思いを叶えるため、ある門跡寺院にお願いし、彼と彼の子供の永代供養をしてもらいました。戒名も授与してもらいました。
しかし、やはり、どうしても彼の本当のお墓を知りたい、と思ったのでした。
彼女が当社に依頼してきてから二カ月後、私たちは彼のお墓の所在地を報告しました。
彼の両親は早逝し彼の墓を建立した叔母が亡くなった時、彼の家は途絶えました。彼の墓を供養する一族はだれ一人いませんでした。
彼女はすぐにお墓参りに行ったのでした。
住職さんから聞いていた区画の一つ一つの墓碑銘を確かめながら歩く。『もうすぐ彼に会える』と思うと、胸が高鳴りました。
『あった』
その名を見つけた時、彼女は本当に彼に会えたような気がしました。
彼女は刻まれた名前を丹念になでながら、あの満州の川のほとりを二人で散歩していた時に彼が言った言葉を思い出していました。
『僕のお墓に君が泣きながら墓参りをしている夢をみたよ』
その言葉ははからずも現実のものとなってしまいましたが、しかしその間には実に五十年もの歳月が流れていました。
彼女は持参した彼の遺影を抱き、住職さんが入念な読経供養をして下さっているあいだ中、泣いていました。
そして、こう思ったと言います。
『やっとこれで、胸をはって向こうの彼に会いに行ける・・・』
<終>
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