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新人の駅員さん(1)| 秘密のあっ子ちゃん(274)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

彼は四十一才、明石市在住で、勤務先は大阪市内です。彼はいつもJR明石駅を利用しています。
今年の夏の初め、いつものように定期券を出して、明石駅の改札をくぐろうとした時、思わず足を止めてしまいました。
年の頃なら、二十二、三。聡明そうで、それでいてとても暖かそうな、うら若き女性がJRの制服を着て改札に立っていたのです。それだけではなく、彼が改札を通る際に、彼女はにっこり笑って、「有難うございます」と言ったのです。社会人になって十九年此のかた、JRで「有難うございます」と大きな声で礼を言われたのは初めてです。 いつもはおもしろくもないというようなブスッとした表情で、乗降客を睨みつけるように突っ立っているだけの、自分と同じ年頃のおっさん(おっと、失礼。これはあくまでも依頼人の弁ですので、JRの職員の皆様、悪しからず)ばかりでしたので、彼女はとても新鮮ですがすがしい印象を与えたものです。
彼女は明らかにJRに就職したての研修期間生であることが見て取れました。 こうなるとおかしなもので、朝早くからラッシュに揉まれる憂鬱な通勤が楽しみになってくるのでした。 彼女は、依頼人(41才)が初めて見た七月一日からずっと明石駅の改札に立っていました。そして、毎朝、彼が通る際には必ずにっこり笑って、「有難うございます」と言ってくれます。 もちろん、それは彼にだけではなく、乗車客全てに対してです。彼が観察するに、そのすがすがしさはいつも同じ電車に乗り合わせる通勤客に快い印象を与えているようでした。
当然、彼とても同じです。明石から大阪まで、朝早くから満員の電車の中で人に押されながら新聞を読むのもままならず、ただじっと耐えるだけの苦痛の時間が彼女の笑顔があるだけで許せるような気分になるのです。身体がだるくてどうもエンジンがかかりにくい月曜日の朝や、二日酔いで頭痛のする朝は特にそうでした。
ところが四ケ月が経って十一月に入った途端、彼女の姿は改札から消えてしまいました。研修期間が終わったのだろうということは容易に想像できましたが、彼女がいなくなると、前にも増してラッシュの苦痛を感じるようになったのは不思議なものです。
彼はその苦痛の通勤時間に、彼女は今、どの駅で働いているのだろうかというようなことをよく考えるようになりました。

<続>

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