これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
やっとの思いで 見つけた依頼人の異母妹の母親でし たが、私たちは彼女にはコンタクトを取らず、この調 査を終了させました。
それは、この段階に来た時、依頼人から「もう少し このままにしておいてほしい」という要望を受けたか らでした。
あのおばあさんの話は、彼にとっては、母がまだ健在だったころ、たまに帰ってくる父、児童福祉施設にいたころ二、三度面会に来てくれた父、そして何よりも死んだと分かって以来、ずっと思い描いていた父親像とのギャップが大きかったようです。
彼女とコンタクトを取って、それ以上に自分が知ら ない事実を受けとめるには、もう少し時間的余裕が必要のようでした。
「お気持ちの整理がついたら、ご自分で彼女にご連 絡されてもいいですし、それがしんどいようでしたら またいつでもご連絡下さい」。私はそう言って電話を切ったのでした。
それから、一年以上がたちました。
「今日で仕事じまい」という暮れのある日、彼から久しぶりに電話が入ってきました。
「妹が役所でも行方不明扱いになっていた事情が分かったので、その報告がしたくて・・・」と言ってきたのでした。
彼の話によると、調査を中断してから一年ほどたったある日、思い切って妹さんの母親に連絡を入れたそうです。
彼女は、彼が名乗ると最初は言葉もないほど驚いた といいます。
「私の父に無理矢理二人の仲をひきさかれた時、娘 はあなたのお父さんが引き取りました。私はすぐにここへ嫁がされました。子供を産んだということは隠し ての嫁入りでした。姑さんは厳しい人でしたが、夫は 優しい人で、息子も生まれて私はそれなりに幸せでし た」 「二年ほどして伯母から『娘が捨て子になって福祉 施設に預けられている。施設が親を探しているという 記事を見た。私が引き取りに行ったが、親でなければ 渡せないと言われて、しかたなく帰ってきた』と聞か されました。
私はすぐにでも飛んで行って、娘をつれて帰りたか ったのですが、姑の手前、引き取りに行けなかったの です。私はあの娘のことを思わないでいた日はありま せんでした」
彼女は依頼人に泣きながら話したそうです。
依頼人にとって、異母妹の話は衝撃でした。
妹は、五歳にもならないうちに父親に捨てられたの です。二人が泊まった信州のある旅館で「すぐに戻って来る」と妹を置いて出ていった父親は、結局、戻っ て来なかったのでした。
母親は、姑の手前、いや、新たに生まれた息子の幸せのために家庭を壊すことができず、彼女が預けられた福祉施設へその成長を問い合わせるだけが精一杯
の親心だったのです。
彼は、妹が母親の存在さえも知らないだろうとも聞 きました。
彼は、私にそうした話を淡々と語りました。
私は、その話を聞いた時の彼の心境はいかばかりか と思わずにいられませんでした。
しかし、なぜか異母妹の母親はもちろん、父親に対 しても、怒りや憤慨の感情は起こりませんでした。彼
の口調があまりにも冷静だったからかもしれません。
私は、ただこの兄妹の運命の凄まじさに言うべき言 葉を失っていました。
依頼人は異母妹の母親と連絡を取った後、妹が育て られたという信州の施設を訪ねたのだそうです。
三十五年も前の古い書類 は既になかったのですが、 職員の好意で、昔勤務されていた先生に連絡を取って もらうことができたということです。
妹さんは、施設を出てから後も、その先生には時折音信を知らせていたのでした。
彼は、その先生の話から、妹さんが現在、長期に入院していることを知ったと言います。
「妹も、さぞかし苦労しただろうと思います。入院 が長期になっているのもそんな精神的な苦労からきているのかもしれません。
やはりまだ、対面する不安はありますが、近いうちに会いに行こうと思っています」。
最後に彼はこう言ったのでした。
暮れの仕事じまいの夜、一人残って、整理のために 書類に目を通していた私は、電話を切ってからしばらく動くことができませんでした。
私は、この兄妹の人生後半の幸せを心より願わずに はいられませんでした。「これからは二人で力を合わせて何としても幸せになってほしい」と。
そして、今も時折、彼らのことを思い出しては『が んばれ!」と心の中でつぶやきます。いつか、彼から 吉報が入るだろうと思いながら・・・。
<終>
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