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終戦…満州国境の純愛(2)| 秘密のあっ子ちゃん(218)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

そして、彼女の大きなお腹をそっと撫で、にっこり笑い、再び車に乗り込んで、彼女の視界から消えていきました。
た。
彼女が彼の姿を見たのは、それが最後でした。
一週間後、彼は、真っ白の布に包まれた四角い箱の中に入って、彼女の元へ戻ってきました。
不測の事故だったと言います。
主計室の彼の机の上には子供の名前をいくつも書き連ねたメモが残っていました。
それからの二カ月、彼女はただひたすら彼の元へ行きたいということだけを願って暮らしました。彼女の意識はこの地上にはないかのような毎日が続きました。
その年の彼岸の夜半、彼女は男の子を死産しました。泣き声一つあげることもなかったこの男の子に、彼が書き残した『覚』と名付けられました。
彼女が二十二歳の秋でした。

最愛の婚約者を亡くし、彼の忘れ形見を死産した依頼人が 私達に依頼してきたのは、彼の本当のお墓を探してほしいということでした。
彼の本籍地も家族のことも全く知らない彼女は、数年前、ある縁で知った門跡寺院にお願いし、彼と彼の子供の永代供養をしてもらいました。
しかし、どうしても、彼の本当のお墓を知りたいと思ったのでした。
昭和二十一年、いく度も危険な目にあいながらも苦難の末、ただ一人、祖国日本の地を踏むことができたのは彼の導きだ、と彼女は信じています。
彼女の半生は彼を偲ぶことで費やされていきました。
そして、偲ぶだけではなく、『彼を慰霊したい。いつか必ず慰霊する。』という思いをバネに、戦後生きてきたのでした。
彼女が『彼を慰霊する』という強い思いを抱いているのは、彼が最愛の人だったというだけではありませんでした。
それは、昭和二十年八月、ソ連進攻から終戦の日までの、彼女が女子軍属として関東軍に従軍し、国境の戦野にいたあの一週間に体験した一つのできごとが、彼女を強く駆りたてていたのでした。

<続>

終戦…満州国境の純愛(1)| 秘密のあっ子ちゃん(217)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

何年たっても忘れ得ない人がいるということは、いつまでも心に残るそんな素晴らしい人に出会えたというそのこと自体、その人の人生にとって、大変幸せな出来事だと、私は常々思っています。たとえ、その相手が健在であろうと、不幸にして既に亡くなっておられても、です。
今回は、五十年以上も前に亡くなられた方を深く胸に刻み込んで生きてこられた、一人の女性のお話をしたいと思います。
彼女は、現在七十二歳の、美しい文字を書かれる上品なおばあさんです。
彼女は、若いころ、家族と共に満州に渡り、終戦の年には東満(現中国、延辺朝鮮自治州)の国境の街にいました。
民間企業の社員だった彼女は、昭和二十年八月、ソ連軍侵攻の際、関東軍に従軍し、終戦までの一週間を国境の戦野にいました。
終戦の日、関東軍の手によって橋が爆破された豆満江を渡るため、彼女は非常な危険を冒さなければなりませんでした。
何日も山の中に潜み、早暁、ソ連軍のスキを見て、泳げない彼女は、やっとの思いで豆満江の渡河を果たすことができ、無事、家族と合流することができました。
しかし、その喜びも束の間、彼女を待っていたのは収容所生活だったのです。
昭和二十一年の正月を四日前にして、彼女の父は体中をシラミに食いつくされ、六十八才の生涯を終えました。続いて甥が疫病で死亡し、兄嫁は息子が眠るその地から去り難く、残留婦人として中国に残ったのでした。
収容所を出ることができたのち、彼女は朝鮮人パーマ屋、中国人の銭湯屋、馬車屋、中国人要人宅などの住み込みの手伝いなどをして生き抜きました。
そして、昭和二十一年十月、第1次引き揚げに加わって、ただ一人、祖国日本の地を踏むことができたのでした。
彼女は今でも、ソ連軍につかまることもなく、また収容所でも生き抜き、無事日本に戻ることができたのは昭和十九年に亡くなった彼女の婚約者の導きだったと信じています。
彼女が、後に婚約者となる彼に初めて出会ったのは、まだ東満(現中国、延辺朝鮮自治州)にいた昭和十七年でした。
彼女とその家族は、その年に満州に渡り、民間の炭鉱に勤務しました。
その炭鉱の社宅は軍の官舎のすぐ横で、彼女は主計中尉だった彼の姿をよく見かけていました。
ある日、彼女が勤務を終えて帰ってくると、彼が官舎の前の畑(官舎の庭を畑に変えていたのです)で作業をしていました。当時、軍人も、非番の日は自分達の食料の確保のため農作業をしていたのです。
見ると、彼は大根の双葉を間引きしていました。そして、引き抜いた双葉を別の場所に植え変えていました。
普通、間引きした双葉は捨てるので、「珍しいな」 と思った彼女は、「根がつくんですか?」と聞きました。
「だめだと思います。でも捨てるのはかわいそうで・・・」
と彼は答えたのでした。
彼女は『やさしい人だ』 と思いました。
それが、彼と交した初めての会話でした。
その後、二人はごく自然な形で、急速に親しくなったのでした。

<続>

中学3年生からの依頼(4)| 秘密のあっ子ちゃん(216)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

彼女の留年で、会うことを再び一年待たなければならなくなった依頼人(高2)。
それでも、彼は「待つ」と言いました。
その二年半程、私たちは彼の消息を知りませんでした。
その間に、当社は西中島から心斎橋に移転し、株式会社になりました。久しぶりに彼から電話がかかって来たのは、秋の初めでした。中学三年生だった彼も既に二十歳になっていました。
「覚えてくれてはりますか?」電話口の彼は言いした。
「ええ、もちろん!元気でしたか?彼女には会えましたか?」と私。
「それが・・・」
語り始めた彼の話に、私は「なんと、まぁ・・・」と絶句したのでした。
彼女が留年して、再び一年待った彼は、次の年の三月の終わりに、直接施設を訪ねたのだそうです。
彼女は無事中学校を卒業したようで、今度はちゃんと「今、おばあさんの所にいる」と教えてもらったそうです。
彼は、すぐにおばあさんの家へ行きました。
ところが、「一週間ほど前に出て行った」と言わたのだそうです。
彼女は、施設からおばあさんの所へ戻ってきてすぐ、「一人で暮らす」と出て行ったようです。
おばあさんは、彼に彼女がどこで暮らしているのかは教えてくれませんでした。
二、三カ月ほどして、彼は例の女友達に頼んで、おばあさんに聞いてもらいました。しかし、おばあさんは、その女友達にも彼女の居所を教えてくれませんでした。どうも、「友人」では警戒されてダメのようでした。
「縁がないのかなぁ」
彼は諦めようと思いました。
それからまた、一年程たちました。
彼の「彼女に会いたい」 という気持ちは、まだ消えませんでした。
「縁がないはずはない」彼は思いました。
そして、ある興信所に彼女の所在調査を依頼したのでした。
「ウチに言ってくれればよかったのに」私は言いました。
「ええ、そう思って西中島に行ったんです。移転しているのを知らなくて・・・。潰れたのかと思いました」と彼。
私はガクッとなりながら、「マ、そらそうだろう。NTTの移転案内は半年しかしないからネェ・・・」 と思ったのでした。
彼が依頼した興信所は、彼女の居所を聞き出してくれました。
報告を受けた彼は、その日中に彼女が住んでいるとていうマンションに行きました。
しかし、何と、彼女は一ヶ月以上も前に、そこを引き払っていたのです。
「引き続き、その興信所に頼もうと思ったら、料金がすごく高くなると言われて困っていたんです。電話帳を見ていたら、そちらが心斎橋に移転しているのが分かって、さっそく電話したんです」と彼は言いました。

五年来、彼の彼女へのけなげな思いを知っている私達は、『今度こそ会わせてあげたい』と、必死で調査を行いました。しかし、 彼女の行方は、ようとして分かりませんでした。
聞き込みによると、彼女は『若い男ができて、二人でどこかへ行った』ということでした。
マンションの管理人も、 彼女が引っ越すまで勤めていた職場も、その『男』の名前は知りませんでした。 おばあさんも、今度ばかりは、本当にどこへ行ったのか知りませんでした。
『男と出て行ったまま、 どこへ行ったのやら・・。連絡一つ、よこしてこないですヨ』おばあさんはそう言いました。
しかし、彼も私達もまだ諦めてはいません。
つい先日、彼は私にこう言いました。『今、一番後悔しているのは、彼女に交際を申し込まれた時、自分も好きだということを言わなかったことです。彼女は、自分の片思いだと勘違いしていると思います』
そしてこうも言いました。
『この文章を彼女が見てくれて、自分のことだと気がついてくれたらいいのに ・・・』と。
そして、最後にこう言ったのです。
『今度こそ、ちゃんと言います、いや、是非、伝えたいんです。ずっと好きだった』と。

<終>

中学3年生からの依頼(3)| 秘密のあっ子ちゃん(215)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

突然施設に入らなければならなくなった憧れの彼女 (中一)からの『半年待っていてほしい』という伝言を聞いて、依頼人(中三) は、その半年間、彼女が戻ってくるのを心待ちに待っていました。しかし、半年たっても、 一年たっても、彼女は戻ってきませんでした。
家庭裁判所に問い合わせてもラチがあかないことに業を煮やした彼は、彼女を探してくれるところを探し始めたのです。当社を見つけた彼は、すぐにすし屋のアルバイトを始めました。
そして、それまでの思いのすべてを込めて、当社へ電話してきたのでした。
「未成年だし、お金がいることだし・・・」と踌躇している私に、彼が懸命に訴えたのは、こうした事情があったからです。
私たちは、大阪府下の福祉施設を軒並み当たりました。
やはり、彼女はその中の一つのある施設に在籍し、そこの寮から中学校へ通っていました。
依頼人にその内容を報告して半年ほどたったある日、再び彼から電話が入りました。彼は高校一年生になっていました。
「施設の方へ電話を入れたら、そんな子はいないと言われたんです」
彼はそう言ってきました。
私たちは依頼人に代わって、その施設の先生に連絡を取ったのです。
「あの子は家庭的に恵まれておりませんが、明るく元気にがんばっています」 と先生は彼女の近況を教えてくれました。
そして、「複雑なことがいろいろあったようですが、今は大分落ち着き、学校へもまじめに行っています。卒業したら就職するのだと、毎日がんばっているんですヨ。私たちも何とかして卒業してもらいたいと懸命です」
「ここにいる子供たちはいろいろな事情を背負ってきていますので、外部からややこしい話が入ってきます。私たちは親同然なので、あの子たちを守る義務があります。ですから、部外との接触はさせておりません。彼女はあと一年で卒業ですので、そっと見守ってやってほしいのです」 と話されました。
私たちは、依頼人に先生の話を伝え、「彼女のために、気を長く持って、もう少し待ってあげてほしい」 と話したのでした。
私たちから、そう伝えられた依頼人は、あと一年待つことに決めました。
「あと一年したら会えるのは間違いないから、待とうと思った」。後に、彼はそう語っています。
それから一年三カ月。彼女の卒業の時期が来ました。
彼から、三たび電話が入ってきたのはそのころでした。
彼が言うには、彼女が卒業間近になった二月から三月にかけて、彼は施設の近くまで何回か行ったということでした。
「朝早く行って、通学路の道ばたで彼女を待っていたんです」
私は、彼のけなげさがなんともいじらしくてなりませんでした。
しかし、彼女は現れませんでした。
そこで、彼は彼女の女友達に頼んで施設に電話をしてもらったそうです。すると、今度も「いない」と言われたと言います。
私たちは、再び施設に状況を聞きました。
「彼女は、もう一年学校に残ることになりました」先生はそう教えてくれました。
彼の思いは再び一年先送りとなったのです。

<続>