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旅先で芽生えた恋(2)| 秘密のあっ子ちゃん(222)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

福知山駅に着くと、玄武洞にいた少女達も下車していました。
みんながホームの中央で、横一列に並び始めました。その時、カメラを持っていた友人は、突然、少女達に向かって、『一緒に写真を撮りませんかぁ!』 と言ったのです。
二人はにっこり笑って、五人の列の前に入ってきました。
もう一人の友人が、『みんなでお茶でも飲みに行こう』と言い出しました。
すると、黄色のTシャツの女の子が、『それでしたら、私達がよく行くお店へ行きましょう』と言ったのです。
八人がその店に入ると、黄色のTシャツの女の子は依頼人の向かいに座りました。
彼女達は地元の高校一年生で、夏休みの宿題で支武洞へ来たということが分かりました。
依頼人達が、大阪から来たのだと知ると、彼女たちは、
『わぁー。私、一度大阪へ行ってみたいと思ってたんです!』
と口々に言ったのです。
『じゃあ、大阪へ来たときは、案内してあげるよ』と仲間たち。
しかし、誰も彼女たちの名前を聞こうとしな
いのです。
依頼人は、『なぜ、聞かないんだ ?』と不思
議に思い、イライラもしました。
彼の向かいに座った黄色いTシャツの女の子が、『分からない所があるので教えてほしい』と英語のテキストを出してきました。依頼人は彼女に教えながらそっとテキストの名前を書く欄を見ましたが、そこは空白でした。
彼は自分から彼女の名前や連絡先を聞くのも少し恥ずかしい気がして、『この先、この子たちにかかわることもないし、旅の一つの思い出になるだけなのだから・・・』
と、言い訳するように思ったのでした。
喫茶店を出ると、少女たちは帰っていきま
した。
依頼人たち六人は、 あと一時間以上もある列車の待ち合わせ時間を、福知山駅近辺でブラブラして過ごしました。
列車に乗り込み、間もなく発車するというとき、何気なく改札の方を見やると、彼女たちがやってきていたのです。こちらに向かって手を振っています。
他の仲間もそれに気づいて、手を振り返していました。
依頼人はドアに飛んでいき、手動式の扉を思い切り開けて、身体を半分乗り出して手を振りました。
列車が発車し、彼女たちが見えなくなるまで振り続けていました。一番最後まで手を振っていたのは依頼人でした。 席に戻ると、仲間の誰かれなしに、「いい子たちやったなぁ」、「もう一度、会いたいなぁ」という声が起こってきました。
依頼人は彼女の名前を聞かなかったことを、今さらながら後悔しました。しかし、渋々やってきた今回の旅行に、『来てよかった』と思ったのです。
彼は、その後ことあるごとに、黄色のTシャツの女の子のことを思い出しました。しかし、昭和五十四年八月十日に玄武洞に来た地元の高校一年生ということと、手元に残った一枚の写真だけでは探しきれるとは思えませんでした。
ました。
それから十一年が経ちました。
彼はそれまで交際していた人と別れたのを機会に、本気で彼女を探すことに決めました。ずっと心に残っていた彼女を探して、彼女がまだ独身ならできれば交際したい、そう思いました。
そして、二年前から知っていた当社に彼女の調査を依頼してきたという訳なのです。
調査は難航しましたが、彼女は高校卒業後、 いったん大阪へ働きに出て、現在は再び福知山へ戻っているとわかりました。
まだ独身でした。
当社からの報告を受けた依頼人は、早速彼女に手紙を出しました。あの列車の前で撮った写真を添えて・・・。
時を置かず、彼女からの返事は届きました。
彼女は十一年前の夏の玄武洞のことはすっかり忘れていました。しかし、手紙に添えられた写真に写っているチューリップ帽をかぶった自分の姿を見て、『懐かしい』と言ってきました。そして、手紙には、昨年、福知山に戻るまでは、彼と目と鼻の先に暮らしてたことがしたためられていました。彼女の手紙を読み直す彼の目に、その文字が飛び込んできた時、彼は大変なショックを受けました。
『私は、この秋、結婚する予定です。
彼は悔いました。
『初恋の人探します社を知った二年前にすぐ探せばよかった。放ったらかしにしておかず、そうしていれば彼女は、まだ自分のすぐ近くで暮らしていたのに・・・』
『福知山へ来られる時があれば、是非ご連絡下さい。再会したいですね。』
最後にそうしめくくられた文章は、なおさら彼を後悔させました。
彼は『いっそ、結婚してくれてた方が、ずっとすっきりしたのに…。』 そう思ったと言います。

<終>

 

旅先で芽生えた恋(1)| 秘密のあっ子ちゃん(221)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

旅というのは往々にして恋を芽ばえさせるものです。皆さんの中にもそういう経験をされた方がいらっしゃるかと思います。
今回は、そうした旅先で知り合い、一年以上も忘れ得なかった人との出会いをした方のお話をしたいと思います。
依頼人は三十一歳の男性でした。
彼は大学一年生の時に、高校、予備校と一緒だった仲間五人と鳥取の海岸へ泳ぎに行きました。
彼は一浪して大学に入学したのですが、目標とした学校でなかったので、春からかなり落ち込んでいました。そんな気分のままで泳ぎに行くのもおっくうでしたが、仲間達を白けさせるわけにもいかず、渋々一緒に行くことに同意したのでした。
昭和五十四年八月八日のことでした。
彼らは、丸二日間、鳥取の海岸で泳いで遊び、三日目には「大阪までの道中で、どこかきれいな所を見学して帰ろう」ということになりました。
「このあたりだったら、玄武洞や」という仲間の一人の意見で、彼らは帰りに玄武洞へ立ち寄ることになったのです。彼が初めて見る玄武洞は、青黒い六角形の柱状節理が幾層にも重なって、それはそれは圧巻でした。
六人は、玄武岩に感激してその前で何枚も写真を撮り合っていました。
依頼人が、ふと右手の方を見ると、大きな洞窟の前で、ノートに何かを書き込んでいる二人の少女が目に入ったのです。
一人は紺のワンピース、もう一人は黄色いT シャツにジーンズ、それにチューリップ帽をかぶっていました。黒やグレー、茶色の岩々の前で、その女の子のTシャツの黄色は鮮やかに浮き出て、依頼人の目に焼き付きました。
依頼人たちが玄武洞を回っている間、彼女たちは、ずっと一生懸命、岩の観察をしていました。
帰りの渡し舟も、福知山へ向かう電車も、依頼人たちは少女たち二人と一緒になりました。
依頼人は黄色いTシャツを着た女の子が気にかかってしかたありませんでした。
福知山へ着くと、大阪行きの列車の待ち合わせ時間は三時間以上もあって、彼らはその辺りを、ブラブラして時間を潰すことにしました。少女たちも下車していきました。

<続>

 

終戦…満州国境の純愛(4)| 秘密のあっ子ちゃん(220)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 昭和二十年八月十六日、爆破された豆満江の橋を目前にして、途方にくれていた彼女たちの前に再び現れたその特派員は、『無事渡河させてやる代わりに、俺の指示に従え』と言ってきました。
 彼女たちがそれに同意すると、特派員は、『これから食糧は俺が分配する』と、彼女たちが持っていたわずかばかりの食糧と軍から支給された札束を取り込みました。
そして、彼女が肌身離さず身につけていた婚約者の遺影を目ざとく見つけると、『そんなもの持っていると、いざという時、言い訳できないぞ!』 と言い、彼女の手から、写真をひったくり、『あっ』 と言う間もなく、細かくひきちぎってしまったのです。さらに、そのちぎった写真を地面にたたき落とし、泥のついた軍靴で踏みしだいたのでした。
 『何するんですか!』
 『なにいっ!』
 特派員は抗議する彼女を睨みつけました。いくらソ連兵に見つけられないためとは言え、彼女は彼の遺影を足蹴にした特派員を許すことはできませんでした。
 そして、豆満江を渡河するためとは言え、彼の遺影を足蹴にするような人間を、一瞬でも信じた自分を悔いました。
 結局、彼女たちは、翌日、ひそかに水を汲みに来た同僚の男子社員に出会うことができ、会社の人たちが潜んでいた山中に合流することができました。そして、一週間後、会社の男子社員や関東軍の残兵の手助けで、無事、豆満江を渡ることができたのです。翌年、第一次引き揚げ船で、 彼女は無事、日本へ戻ることができました。
 その過程で、彼女は父を失い、つらい収容所生活を経験せざるを得ませんでしたが、何とか無事に祖国へ戻れたのは、亡き婚約者の導きだったと今でも信じています。
 しかし、それだからこそなおさら、彼女は彼の遺影を足蹴にされるのを許してしまったということに、ずっとわだかまりを感じ続けてきました。『自分のうかつさから、故なく足蹴の侮辱を加えられた彼の口惜しさを何らかの形でしのぎ、慰霊しなければ、向こうの世で合わせる顔がない』彼女はそう思い続けてきたと言います。
 彼女は彼の本籍地も親族のことも何一つ知りませんでした。満州から引き揚げてきた時、彼とのつながりは切れてしまったのです。
 「慰霊しようにも、彼の墓すら分からない状態でした。
 数年前、彼女はその思いを叶えるため、ある門跡寺院にお願いし、彼と彼の子供の永代供養をしてもらいました。戒名も授与してもらいました。
 しかし、やはり、どうしても彼の本当のお墓を知りたい、と思ったのでした。
 彼女が当社に依頼してきてから二カ月後、私たちは彼のお墓の所在地を報告しました。
 彼の両親は早逝し彼の墓を建立した叔母が亡くなった時、彼の家は途絶えました。彼の墓を供養する一族はだれ一人いませんでした。
 彼女はすぐにお墓参りに行ったのでした。
 住職さんから聞いていた区画の一つ一つの墓碑銘を確かめながら歩く。『もうすぐ彼に会える』と思うと、胸が高鳴りました。
『あった』
 その名を見つけた時、彼女は本当に彼に会えたような気がしました。
 彼女は刻まれた名前を丹念になでながら、あの満州の川のほとりを二人で散歩していた時に彼が言った言葉を思い出していました。
『僕のお墓に君が泣きながら墓参りをしている夢をみたよ』
その言葉ははからずも現実のものとなってしまいましたが、しかしその間には実に五十年もの歳月が流れていました。
 彼女は持参した彼の遺影を抱き、住職さんが入念な読経供養をして下さっているあいだ中、泣いていました。
 そして、こう思ったと言います。
 『やっとこれで、胸をはって向こうの彼に会いに行ける・・・』

<終>

終戦…満州国境の純愛(3)| 秘密のあっ子ちゃん(219)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 昭和十九年、満州で最愛の婚約者を亡くし、彼の忘れ形見を死産した依頼人 (72才)は、苦難の末、ただ一人、祖国日本の地を踏むことができました。
 戦後、彼女は、彼と彼の子供を『いつか必ず慰霊する』という思いをバネに生き抜いてきました。
 彼女が強くそう思ってきたのは、早くに亡くなった愛する人をしのぶということだけではなく、一つのできごとが彼女を駆りたてていたのです。
 それは、終戦の日から、 ソ連軍の追撃を逃れてさまよった東満の国境の戦野でのできごとでした。
 昭和二十年八月九日、ソ連軍が進攻してくると、民間会社の男子社員は在郷軍人として関東軍の指揮下に入り、女子社員のうち身軽な者は女子軍属として篤志で従軍志願していきました。彼女もその中の一人として、負傷者の介護や破甲爆雷の箱詰め、炊事係の手伝いなどをして働きました。八月十五日の昼すぎ、突然、ソ連機が野戦基地に攻撃をしかけてきました。
 彼女は勤務交代で、同僚と一緒に宿舎に帰る途中でした。
ソ連機は彼女たちの頭上から、なでるようにあたり一帯に機銃掃射を繰り返したのです。
 彼女たちはやぶの中に逃げ込み、かろうじて難を逃れることができました。
 その時、彼女たちとともに逃れた一人の中年の男がいました。彼はH新聞社の特派員と名乗り、八月九日からずっと行動を軍とともにしていました。
 『日本は負けた。原子爆弾という強力なヤツが広島と長崎に落とされた。』彼女たちは、初めてこの特派員から日本が負けたことを知らされました。
 その日の夜半、ソ連軍の攻撃の合間をかいくぐって軍のトラックは一団となって山道を登っていきました。彼女は同僚の一人とともに、そのトラックの荷台にうずくまっていました。
 明け方、トラックがやっと豆満江岸に到着したとき、橋は既に関東軍の手によって爆破されていました。
 皆、ぼう然と岸辺に立ちつくしました。が、旧ソ連兵の目を恐れて、すぐに軍人も民間人も争って近くの山道に逃げ込んだのでした。
 その混乱の中で、彼女と同僚の友人は会社の人達とはぐれ、二人きりになってしまいました。二人が山裾の木陰にひそ
んでいると、あの特派員が現れました。『ソ連兵はもうこの辺りにいる。ヤツらの目を盗んで、女二人がこの河を渡るのは無理だ。俺が様子を伺って、お前達を向こうに渡してやる。そのかわり、俺の言う通りにするんだ。』
 彼はそう言ったのでした。彼女達はこの戦野で頼りにできる人もなく、彼の言う通りにすることにしました。
 彼は彼女達に所持品を全て出すように命じました。 二人が持っていたわずかな食糧と軍から支給された金を、この特派員は全て取りこんだのです。
 そして、彼女が肌身離さず身につけて持っていた婚約者の遺影を見つけると、 彼女の手からそれをひったくり、有無を言わさず破りすてたのでした。

<続>