これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
翌日、私は彼女のマンションへ下見に行きました。
マンションはオートロックになっており、彼女の部屋は五階にありました。彼女の写真がないため、マンションの出入口では彼女を特定できません。私は、彼女が部屋から出てくるところが見え、なおかつ彼女に気づかれない張り込み場所を探しました。それが済むと、車両とバイクをどの位置に配置しておけばよいかを考えました。彼女が徒歩と地下鉄を使っても、あるいはタクシーで通勤しても、また自転車に乗っていっても対応できるように考えておかねばならなかったからです。
尾行班の配置場所を確定し終わると、彼女の部屋の近くで、彼女が出てくるのを待ちました。できれば顔を確認しておきたかったのです。しかし、二時間待っても彼女は姿を現わしませんでした。私は、その日は彼女の顔確認を諦め、翌日尾行を決行するよう、尾行班に指示したのでした。
尾行決行当日、尾行班は彼女が同伴や美容室へ行くことも考えて、早めに張り込みを開始しました。
二、三時間は彼女の部屋の前では動きがありませんでした。
午後四時ごろになって、 下の子供達と覚しき中学生と小学生が学校から帰ってきました。彼女はまだ出てきません。
五時半ごろ、上の娘さんと末っ子の男の子が部屋から出てきました。
二十分程して、二人は戻ってきました。しかし、彼らはなんと、足を骨折してギブスをはめた中年女性を乗せた車椅子を押していたのです。部屋に入る時、先に入ろうとした末っ子に上の娘さんが、「お母さんを先に入れたらなあかん!」 と叫びました。
彼女は、今度は足の骨折のため療養中だったのです。
彼らはマンションの中に入り、彼女を車椅子にのせたままエレベーターに乗り込みました。自分達の部屋の前まで来ると、上の娘さんが車椅子から彼女を抱きかかえてドアの中に入ろうとしました。その時、末っ子が我先に入ろうと二人を押しのけたので、「あかん! お母さんを先に入れたげな!」と、姉にたしなめられていました。
足を骨折して抱きかかえられた中年女性こそが彼女 であることは明らかでした。
この状態では、彼女はとても働きには出れません。 私達はそれを確認して、張り込みを解除したのでした。
翌日、私はこうした彼女の状況を依頼人に報告しました。
「そうでしたか。足の骨を折っていたんですか。そういうことなら、足が治るころまで、彼女からの連絡をもうしばらく待ってみます」彼はそう言って帰っていきました。
私は、世の中にはなんと心の広い、暖かい人がいるんだろうかと、彼の後姿を見送ったのでした。
<終>