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被災地での人探し,知人の安否や消息を求めている方からの | 秘密のあっ子ちゃん(13)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
阪神大震災で甚大な被害を受けた被災地では徐々に本格的な復旧が始まっています。
そんな中、当社では先週あたりから私が考えてもみなかった問い合わせが相次いで入り始め、当社の社会的責任に改めて身を引き締められる思いをしています。 それは、被災地にいる知人の安否や消息を求めている方の問い合せです。
もちろん、肉親や親せき、親しい友人など、詳しい住所や電話が分っておられる方は独自の努力で安否の確認をされています。
また、当社に問い合せされてきた方の中でも、きっちりした番地まで分らなくてもある程度の町名ぐらいまでが分っておられる方には、その近所の避難所の場所や安否確認ができそうな機関名をお教えさせていただいています。
しかし、問題は、「被災地の中にいるのは間違いないけれど、詳しい住所や連絡先を全く知らない」というケースです。
彼らは何とか安否を確認しようと、この二週間いろいろと努力されてきました。しかし、詳しい住所が分らなければ確認しようもなく、切羽詰まって当社のような関西の探偵事務所に人探しの調査の相談に来られた方がほとんどなのです。
被災地にいるはずの知人の安否を心配して当社に相談に来られている方のほとんどは、相手の詳しい住所や連絡先を知らない方でした。
例えば、五年前に駆け落ちした娘さんのことで来られたお父さんの場合。「娘が家出した直後に何とか見つけ出し、家へ連れ戻したが、再び男を慕ってすぐに家を出た。これまでは自分で気づかない限り戻って来ないだろうと、娘のことは諦めていたが、二年前、最後に来たハガキの消印が神戸になっていたので、とても心配している…。」
例えば、料理店を経営している女主人の場合。「長年勤めていた調理士が年末に独立したいと店を辞めた。実家の店を改装して商売を始めると言っていた。彼の独立には自分も異論はなかったので何かと応援しようと考えていたが、『ある程度めどがつくまで一人でがんばる、それまでは連絡してくれるな』と本人が強く言うので、実家の詳しい住所を聞いておかなかった。その実家は長田区にあるはず。こんな状況でも連絡してこないのは何かあったのではと思い、気がかりでしかたない…。」
例えば、四十五才の男性の場合。「二十年前に七年程つきあった彼女の嫁いだ先が西宮市のはず。実家に様子を尋ねようとしたが、既に引っ越していた。無事かどうか気になって眠れない…。」などなどです。
二十五才のA君の場合はこうでした。
彼女を知ったの一年前のことです。ずっと通っていたテニスコートでいつも顔を合わす彼女を、初めてお茶に誘ってから交際を始めるのにそれほど時間はかかりませんでした。
彼女は彼と同い年の二十五才。彼女は、三年前、大学を卒業する直前、就職先のことやそのころつきあっていたボーイフレンドのことで両親ともめ、それをきっかけに東灘区の実家を出て大阪で一人暮しをしていました。
つきあい始めて半年が経ったころ、A君は些細なことで彼女と口論しました。  それから二週間、彼女からは全く連絡がきませんでした。
A君は自分が悪いとは思っていませんでしたが、少し言い過ぎた気もして、そろそろ電話してみようかと考えていました。
そんな矢先、彼女から連絡が入ったのです。
「人事異動があって、三宮支店に変わることになった。大阪からでは通勤に疲れるので、実家へ帰る」というものでした。
「また連絡してこいよ」彼はそう言って電話を切ったのです。
それが、昨年の十二月初めのことでした。
それほど激しい恋ではありませんでした。楽しく遊べるガールフレンドの一人くらいしか思っていませんでした。だから、「人事異動があって、東灘の実家に戻る」と彼女(25才)から電話があった後、ひと月以上も連絡が来なくてもさほど気には止めていませんでした。最後に口論したせいもあって、連絡があったらあったで、またなければなかったでいいと思っていました。一月十七日までは。 阪神大震災の当日、初めは経験したこともない大きな揺れに驚いていただけの彼(25才)ですが、刻々と画面に映し出される神戸市の惨状に、「彼女はどうしているか」と気になり始めました。そうなると、テレビの前から離れることができなくなったのでした。 十八日になると、東灘区でも火災が発生し、それはみるみるうちに大きくなっていきました。時間を経るごとに増えていく死亡者の、その発表される名簿を食い入るように見つめていました。彼女の名前はありませんでしたが、彼はもうろくに眠ることができなくなってしまいました。
震災から五日目、土曜日に彼は被災地へ向いました。彼女の実家が東灘区のどこにあるかは全く分りませんでしたが、とてもじっと家でニュースなどを見ている気にはならなかったのです。 彼女とは十回ほどデートをしていました。知り合ったテニスコートでプレイしたり、食事に出かけたり、カラオケボックスにも二、三度行きました。いつもたわいのないのないことを話して笑い、楽しく騒ぐだけでした。今にして思えば、彼女を探すのに、手がかりになるようなことは何ひとつ聞いていませんでした。彼が彼女について知っていることと言えば、ひとりっ子で、実家が東灘区にあり、大学卒業をするまでずっとそこに住んでいたこと、仕事は事務職で週休二日であること、そしてテニスとカラオケが上手だということだけなのです。実家の住所はもちろん、大阪の彼女のアパートの住所も電話も大学名も会社名も聞いていなかったのです。いや、そんなことに無関心だった自分が悔やんでも悔みきれませんでした。
一月二十一日、彼は何とか運行している阪神電車で甲子園まで行き、四十三号線沿いを西へ歩いていきました。甲子園球場から少し歩くとすぐに、落下している阪神高速が目に入りました。テレビが映し出していた、バスが宙ぶらりになっていた現場だとすぐに分りましたが、それを見ると余計彼女のことが心配になり、今津あたりから二号線の方へ入っていきました。しかし、住宅地はもっと衝撃でした。完全に倒壊している木造家屋、駐車場になっている一階が潰れて傾いたマンション。瓦礫に埋まった車…。テレビの映像とは比べものになりませんでした。そしてそれは芦屋、東灘へと西へ歩くにつれてもっとひどくなっていくのでした。 彼は深江から魚崎、そして北へ向って住吉あたりまで歩きました。何ケ所もの避難所に行き、彼女の姿がないかを探し回りました。初めから分っていたことでしたが、彼は一日中歩き回って、彼女を探すなど、到底無理だと悟ったのでした。 あてもなく東灘区を歩き回ったあの日から、彼(25才)は祈るような思いで、ただひたすら彼女からの連絡を待っていました。ただ一言でいいのです。「無事だ」という言葉だけで…。 でも、彼女からの連絡は全く入ってきません。
落ち着かず受話器の前を行ったりきたりし、「どこかへ避難していて、俺のとこへ連絡してくるような状況ではないんだ」と考えてみても、いらいらは収まりませんでした。
思い余って、彼は当社にやってきたのでした。
私は、彼の話を聞くやすぐに東灘区の彼女の苗字の家へ電話をかけるよう、スタッフに指示しました。
電話は何とか通じるようになっていましたが、やはり電話口に出られるお宅は限られています。しかも、その中には彼女の実家はありませんでした。
帰りづらそうにその作業を見ていた彼も、「何とかよろしくお願いします」と言い残して帰っていきました。
私達は電話連絡が取れなかった彼女と同姓の家を、東灘区の住宅地図でピックアップしていきました。
明日から、私達はそのピックアップしたお宅と近くの避難所へ、彼女を探しに東灘区に入ります。
<終>

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