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遠くて近い縁 | 秘密のあっ子ちゃん(12)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
今回は久しぶりに“戦前”のお話をしましょう。
依頼人は、現在八十八才になる男性です。彼は戦後、食料問屋で功を成し、現在、会社は長男に任せ、趣味の絵を描いたり、元気に海外に旅行したりの楽隠居の身上ですが、若いころは船場の昆布屋さんに丁稚奉公に出ていました。昭和初期のころのことです。
当時の船場では、使用人に対してきつい商家が多かったそうですが、この店は暖簾の古い、かなりの大店にも関わらず、旦那さん、御寮さんともども優しい人で、丁稚の彼に対しても家族同様に親身に扱ってくれたのだそうです。  昭和十四年、彼が二十八の年に独立した時も、主人夫婦は暖簾分けをしてくれ、心から祝福してくれたのでした。
その後、彼が召集されるまでの三年間は、彼自身もよく主家に出入り頻繁に往来があったのですが、終戦を迎え、南方から引き揚げてきた昭和二十二年には、旦那さん一家がどうなったか全く分らなくなってしまっていたのです。
焼跡で彼がわずかに聞いた噂は、『三重県の名張の方へ疎開した』ということだけでした。
戦前にとても親身に世話をしてくれた主家は、依頼人(八十八才)が応召している間に空襲に会い、彼が南方から引き揚げてきた昭和二十二年には、どうなってしまったか皆目分らない状態になっていました。
妻子が待つ実家の丹波に戻るより先に、彼は引き揚げ船から降りるとまっすぐに船場に向ったのでした。戦前、あれだけ賑っていた船場の姿はそこにはなく、昆布を扱っていた主家の大店も跡かたもなくなり、その辺りにはバラックが建っているだけだったのです。彼はしばらく茫然と立ち尽していたそうです。
それでも、よくしてくれた旦那さんや御寮さんやお嬢さん達のことが気にかかり、その周りを丸二日間聞き回りました。その結果、『空襲が激しくなる前に名張の方へ疎開して行った』ということまでは分ったのでした。彼は旦那さん達が何とか命だけは無事であると知って安堵したのです。 その後、戦後の混乱が治まりかけると、彼は主家を探しに行きました。しかし、その時の彼の調査では消息どころか、何の手がかりもつかめなかったのです。
彼は主人一家のことが気になりつつも、自身のその時の調査で、彼らを探すことは不可能だとほとんど諦らめてしまいました。
昭和二十六年、依頼人(88才)は彼が応召している間に行方が分らなくなった主家を疎開先と聞いた名張に探しに行きましたが、その消息は皆目分りませんでした。
それから50年以上、彼は旦那さん達のことを気になりつつも、『もうこれ以上探す手だてがない』と諦めていました。
ところが、米寿を迎える年齢になってくると、再び主人一家のことが気になってきたのです。
『私がもうこんな年ですから、旦那さんや御寮さんは既に亡くなっていると思います。生きている間にお世話になったお礼に、せめてお墓参りがしたいのです』
主人夫婦には三人の娘がいました。
『嬢さんが婿養子を取られてお店を継がれたのですが、私より年上でしたので、現在生きておられるかどうか分りません。中んさんは他家へ嫁つがれましたねぇ。そこもどうなったのか分らないのです。こいさんが生きておられたら八十歳前後だと思います。こいさんを探してもらったら、旦那さん達のお墓も分るのではと思うのですけど…』 彼の依頼は、こういうことだったのです。
戦前、丁稚時代に世話になった主一家を探したいという依頼人(八十八)は、『旦那さんや御寮さんは、もう亡くなっていると思います』と言い、末娘のこいさんを探して旦那さん達の墓参りがしたいと願っていたのでした。
それというのも、お嬢さん達の中でこいさんは依頼人とは特に縁が深かったのでした。
彼は奉公に入ってすぐにこいさんの係を命じられました。こいさんが小学校に上ると、彼は毎日学校まで送り、とって返って店の仕事をしました。そして、こいさんの授業が終わるまでに彼女が出てくるのを待つのです。こいさんは彼になつき、どこへ行くにも彼をお伴にしたのでした。こいさんの送り迎えは、彼女が高等女学校を卒業するまで続きました。高等女学校の願書を提出しに行ったのも彼だったのです。
彼が出征するまでに、こいさんは船場の大店からいくつもの縁談が舞い込んでいました。しかし、どの話にも頑として首をたてに振らず、彼に赤紙が来たころにはすでに二十才を過ぎていましたが、こいさんはまだ嫁いでいませんでした。
『昨年の秋、名張の方へ行くことがありまして、辺りを歩いていると、50年前、旦那さん達を探し回ったことが急に思い出されて…。思い出すと居ても立ってもいられず、お墓参りがしたくなったのです。それで、こいさんの高等女学校の後身の学校に問い合わせてみたのですが、分かりませんでした』彼はそう話しました。
学校ルートでは消息が分からないと言うので、私達は古くからの昆布屋さん、つまり同業者を当りました。しかし、ほとんどが代替わりしていて、手がかりらしい手がかりはつかめませんでした。
船場での聞き込みも同じことでした。船場一帯は昭和二十年二月とそれに続く三月十四日の大空襲で、島の内の一部を残してほとんどが消失しています。おそらく何の手がかりも出ないだろうということは、これまでの船場の何ケースもの調査で容易に推察はできていました。が、私達は念のために調査に入ったのです。しかし、やはりこの聞き込みは徒労に終わりました。
疎開先であったという名張にいたってはもっと期待薄です。戦後まもなく依頼人が探しに行っても見つけることができなかったものを50年も経って何か出てくるとは考えられません。
そこで、いよいよ奥の手の登場です。しかし、これは何十人もの消息を辿る膨大な作業が必要になってくるものです。すなわち、こいさんの同級生、二、三年前後の同窓生の所在を確認した上で、聞き込みに入るという作業なのです。
その調査を、今思い出しただけでも疲れてくるのですが、そのがんばりのお陰で彼女の行方は判明してきました。
こいさんは健在でした。戦後疎開先の縁で嫁ぎ、現在は伊賀上野に住んでおられたのです。七十九才になっておられました。
難航した人探しの調査のため、3ヶ月も待たせてしまった依頼人(88才)に、『こいさんの居所が判明してきました!』と連絡するや、彼はその日じゅうに飛んでやって来られました。
そして、彼は報告書に記載された彼女の嫁ぎ先の苗字と住所を見て、目を見張ったのです。
それは、彼の遠い血縁に当る一族でした。今ではめったに往き来のない薄い薄い親せきでしたが、その名は間違いなく彼との繋がりを示していました。
『こんなことってあるんですねぇ…』彼はそう唸ったまま、しばらく黙り込んでいました。
本当に世間とは狭いものです。あれほど探していたこいさんが、『遠い』と言っても彼の血縁に当たる家に嫁いでいたのですから…。おそらく、こいさん自身もそのことを五十年以上も知らないままにきた可能性は十分にあります。
『これでまた一つ、昔話に花が咲かせることができます』そう言って、彼は嬉しそうに帰っていかれました。
『こいさんに再会し、旦那さん、御寮さんの墓参りも無事済ませることができました』と書かれた、秋色に彩られた伊賀上野城の写真絵葉書が届いたのは、それから二週間後のことでした。
<終>

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