これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
何年たっても忘れ得ない人がいるということは、いつまでも心に残るそんな素晴らしい人に出会えたというそのこと自体、その人の人生にとって、大変幸せな出来事だと、私は常々思っています。たとえ、その相手が健在であろうと、不幸にして既に亡くなっておられても、です。
今回は、五十年以上も前に亡くなられた方を深く胸に刻み込んで生きてこられた、一人の女性のお話をしたいと思います。
彼女は、現在七十二歳の、美しい文字を書かれる上品なおばあさんです。
彼女は、若いころ、家族と共に満州に渡り、終戦の年には東満(現中国、延辺朝鮮自治州)の国境の街にいました。
民間企業の社員だった彼女は、昭和二十年八月、ソ連軍侵攻の際、関東軍に従軍し、終戦までの一週間を国境の戦野にいました。
終戦の日、関東軍の手によって橋が爆破された豆満江を渡るため、彼女は非常な危険を冒さなければなりませんでした。
何日も山の中に潜み、早暁、ソ連軍のスキを見て、泳げない彼女は、やっとの思いで豆満江の渡河を果たすことができ、無事、家族と合流することができました。
しかし、その喜びも束の間、彼女を待っていたのは収容所生活だったのです。
昭和二十一年の正月を四日前にして、彼女の父は体中をシラミに食いつくされ、六十八才の生涯を終えました。続いて甥が疫病で死亡し、兄嫁は息子が眠るその地から去り難く、残留婦人として中国に残ったのでした。
収容所を出ることができたのち、彼女は朝鮮人パーマ屋、中国人の銭湯屋、馬車屋、中国人要人宅などの住み込みの手伝いなどをして生き抜きました。
そして、昭和二十一年十月、第1次引き揚げに加わって、ただ一人、祖国日本の地を踏むことができたのでした。
彼女は今でも、ソ連軍につかまることもなく、また収容所でも生き抜き、無事日本に戻ることができたのは昭和十九年に亡くなった彼女の婚約者の導きだったと信じています。
彼女が、後に婚約者となる彼に初めて出会ったのは、まだ東満(現中国、延辺朝鮮自治州)にいた昭和十七年でした。
彼女とその家族は、その年に満州に渡り、民間の炭鉱に勤務しました。
その炭鉱の社宅は軍の官舎のすぐ横で、彼女は主計中尉だった彼の姿をよく見かけていました。
ある日、彼女が勤務を終えて帰ってくると、彼が官舎の前の畑(官舎の庭を畑に変えていたのです)で作業をしていました。当時、軍人も、非番の日は自分達の食料の確保のため農作業をしていたのです。
見ると、彼は大根の双葉を間引きしていました。そして、引き抜いた双葉を別の場所に植え変えていました。
普通、間引きした双葉は捨てるので、「珍しいな」 と思った彼女は、「根がつくんですか?」と聞きました。
「だめだと思います。でも捨てるのはかわいそうで・・・」
と彼は答えたのでした。
彼女は『やさしい人だ』 と思いました。
それが、彼と交した初めての会話でした。
その後、二人はごく自然な形で、急速に親しくなったのでした。
<続>
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