これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
そして、彼女の大きなお腹をそっと撫で、にっこり笑い、再び車に乗り込んで、彼女の視界から消えていきました。
た。
彼女が彼の姿を見たのは、それが最後でした。
一週間後、彼は、真っ白の布に包まれた四角い箱の中に入って、彼女の元へ戻ってきました。
不測の事故だったと言います。
主計室の彼の机の上には子供の名前をいくつも書き連ねたメモが残っていました。
それからの二カ月、彼女はただひたすら彼の元へ行きたいということだけを願って暮らしました。彼女の意識はこの地上にはないかのような毎日が続きました。
その年の彼岸の夜半、彼女は男の子を死産しました。泣き声一つあげることもなかったこの男の子に、彼が書き残した『覚』と名付けられました。
彼女が二十二歳の秋でした。
最愛の婚約者を亡くし、彼の忘れ形見を死産した依頼人が 私達に依頼してきたのは、彼の本当のお墓を探してほしいということでした。
彼の本籍地も家族のことも全く知らない彼女は、数年前、ある縁で知った門跡寺院にお願いし、彼と彼の子供の永代供養をしてもらいました。
しかし、どうしても、彼の本当のお墓を知りたいと思ったのでした。
昭和二十一年、いく度も危険な目にあいながらも苦難の末、ただ一人、祖国日本の地を踏むことができたのは彼の導きだ、と彼女は信じています。
彼女の半生は彼を偲ぶことで費やされていきました。
そして、偲ぶだけではなく、『彼を慰霊したい。いつか必ず慰霊する。』という思いをバネに、戦後生きてきたのでした。
彼女が『彼を慰霊する』という強い思いを抱いているのは、彼が最愛の人だったというだけではありませんでした。
それは、昭和二十年八月、ソ連進攻から終戦の日までの、彼女が女子軍属として関東軍に従軍し、国境の戦野にいたあの一週間に体験した一つのできごとが、彼女を強く駆りたてていたのでした。
<続>
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