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元諜報員の初恋(1)| 秘密のあっ子ちゃん(225)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

初恋はカルピスの味のようなものとよくいわれますが、そんな甘く香ぐわしいものばかりとは限りません。時には、レモンに塩をまぶしたような後悔と苦痛だけを残すこともあります。
今回は、七十年の人生の重さのすべてをかけて、初恋の人を探された男性のお話をしましょう。
彼は大正十一年生まれ、 現在七十二歳です。
十五歳の時に海軍兵学校に入った彼は、諜報員としてさまざまな訓練を受けました。
ノモンハン事件の真相探査の一員として赴いていた満州国境から帰国すると、彼は所属していた海軍軍需部から『一般資格で民間会社に就職せよ』という指示を受けたのでした。そこで、ある大手繊維貿易商社に入社し、十日ほどの基礎訓練を受けた後は、子会社である池田市の百貨店への出向が命じられました。
彼はまた、諜報員としての身分をカモフラージュするためにN大工学部生でした。
彼の毎日は、百貨店の仕事と同時に、学生としての試験に追われ、もちろん本来の任務である暗号通信をもこなし、目の回るような忙しさでした。
彼がその人生を左右する初恋の人に出会ったのは、その百貨店でのことだったのです。
それは昭和十五年、うだるような暑い夏の午後でした。
彼はいつものように、連日出される官報に首っぴきで、その発令欄から規制品種を選び出す作業をしていました。物価統制令のただ中、模範店とされているこの百貨店から少しの誤りも出す訳にはいきません。
事務室にあるたった一台の扇風機の生ぬるい風は彼の席までは届かず、彼はたまらず部屋を飛び出し食堂に行ったのでした。
食堂は時折風が入って、 少しはしのぎやすく、そこで仕事の続きに取りかかり始めた時、奥に社員がいるのに気づきました。
彼女は、彼より一つか二つ年下の十六、七歳に見えました。ハンカチに釣り針で器用に値札をつけています。
初めてみる顔でした。この百貨店に勤務して三カ月がたとうとしていましたが、彼はあまりの忙しさに従業員の全ての顔をまだ知らなかったのです。
『忙しそうやね。いつも』
彼女の方から声をかけてきました。
『うん、分らんことばっかりで』彼は答えました。
彼女はぽっちゃりとした丸顔で、小さな口が印象的でした。
二言三言、言葉を交わしたあと彼が仕事に戻ると、彼女が突然、
『猪名川のボートに乗りに行かはらしません?』と言ってきたのです。
あまりの唐突さに彼は、『誰と?』というような無粋な答えしかできませんでした。
その日、彼はいつもより早めに仕事を切り上げて、彼女が言ったボート乗場に向かいました。
同僚達数人も来ると、彼女は言っていましたが、乗場には誰の人影もありません。
『何や、嘘か』
彼が帰りかけると、橋のたもとから姿を現したのは彼女でした。
『どないなった? みんな来ないんか』
『初めてやわね。 二人になったの』
彼女は全く見当違いのことを言ってきました。

<続>

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