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元諜報員の初恋(2)| 秘密のあっ子ちゃん(226)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

『みんなでボートに乗りません?』という彼女(18歳)の言葉に誘われるまま、依頼人(15歳)が猪名川の川べりに行くと、そこには彼女しかいませんでした。
『みんなは来ないんか ?』と尋ねる彼に、彼女は、
『初めてやわね。二人になったの』と見当違いのことを言ったのです。
そして、『誰かに見られるといややから』とボートのことなど忘れたかのように、先に立って歩き始めました。
二人はただ黙って歩いていました。
花屋敷あたりまで来た時、彼女はぽつりと言ったのです。
『みんながあなたのこと、好きやって言うたはるのを聞いて、私、嫌な気持ちゃったの』
翌日には、もう二人のことは百貨店中の噂になっていました。二人はあちこちで冷やかされ、からかわれました。
そんなことがあってからというもの、彼は忙しい合間を縫って、十数回、彼女とデートを重ねたのです。 彼は会う度に、彼女の繊細な心づかいと聡明さに惹かれていきました。
年が変わった昭和十六年の春、彼はずっと考えていたことを、思いきって口にしました。
『いつまでもこんな形ではなしに、はっきりと結婚を目標にして歩みたい』 と。
戦争は今後どう展開していくか分かりませんでした。お互い、必ず明日また会えるかどうかも分からない。ましてや、彼の諜報員としての任務を考えるとなおさらのことでした。
『ずっと先の結婚の約束なんかできないと君が思うなら、残念だけど僕は今のうちに諦める』
いつ死と直面しなければならないかもしれない自分の立場を考えると、彼はそんなふうにしか言えませんでした。
彼女の返事はなかなかもらえませんでした。ある日、彼は彼女の友人から、 『あの子、あなたのお母さんのこと、えらい気にしてやるよ。とっても難しそうな人やから、自信がないって言ってやった』と聞かされました。
彼の『母』は育ての親でした。彼の実母は、彼を産んだ翌日に息を引き取ったのです。小学校終了時にその事実を知った彼は、育ての母の気持ちを慮ばかって、知らないふりを通してきました。しかし、『義理』だという思いは、何かにつけて『遠慮』という形で現れていきました。とりわけ、父が他界してすぐに襲ってきた貧困が、極端に病弱だった彼のせいかのように言われ続けるようになってからはなおさらのことでした。
それに彼は、彼女に自分の隠された任務のことは全く話していませんでした。
『諜報活動』は、誰にも話すことが許されないもので
あるのは自明のことです。
『どんなことになってもついていきます』
やっと彼女の返事があったのは、三ヶ月もたった七夕の夜でした。
『命を永らえることができたなら、結婚しよう。その日までは、二人、清潔でいよう』彼は彼女の手を固く握りしめていました。
しかし、十二月八日、日米が開戦するや、『非常時』のかけ声はいやが上にも高まり、百貨店の多くの男子社員が応召していく中、彼はますます多忙を極めていきました。
弱冠二十歳で仕入、売場の責任者としての仕事をこなし、機密裏の情報部の暗号通信を行う。それに在籍している大学の学生としての勉強もこなさなければなりませんでした。
彼女とはなかなか会うことができませんでした。男と女が立ち話をするだけでも人目を憚られたあの時代、職場で顔を合わせても、二人は思うように話すらできないでいました。
そんな時、彼が軍の指示で名古屋の関連会社への転勤が決まりました。
名古屋に行くと、諜報員としての任務はますます苛酷で危険なものとなっていきました。
工場爆破計画情報を事前に入手して大事故を未然に防ぎ、また連日のように続く『横須賀通い』の中、急きょ乗り込んだ潜水艦のやむをえない進路変更のため赤道まで至ったこともありました。
彼女とは、ますます会えなくなっていったのです。
そのころ彼は爆弾の破片が右大腿に突き刺さる傷を負いました。すぐに応急手当てはしたものの、傷口が化膿し、脚全体が腫れ上ってきたのです。彼は軍病院で切開手術を受け治療したのですが、歩くのにかなりの苦痛を感じるようになってしまいました。
そんな中、彼は『大本営発表』ではなく、幸か不幸か事実を熟知できる立場にいたため、戦況はますます日本側に不利になっていくことをいやが上にも感じていました。
彼は苦悩していました。常に『死』と隣り合わせにある自分が、彼女にできる 『誠意』とは何なのかを思い悩んだのでした。
『最後まで命を共にすべきなのか』
『それとも、今のうちに彼女を自由にしてあげることが彼女のためなのか』
戦時下の中でめったに会えない二人は、お互いを思いやる心だけで支えあっていましたが、彼女の忍耐も限界に近づいていました。

<続く>

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