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結核療養所にて | 秘密のあっ子ちゃん(34)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
数多くの思い出の人探しの調査依頼を受けていると、中には懐しく心地良い記憶だけではない人もいます。確かに、その出会いは素晴しかったのですが、若気の至りと言いますか、自分の対応がひどく相手を傷つけたのではないかと悔い、それをずっと気にかけておられる人もいるのです。
二ケ月程前に依頼されてきた六十三才の男性もそうでした。
彼は依頼するに当たって長い手紙を寄こしてくれました。手紙はこんな書き出しで始まっていました。

「前略 突然のご無礼お許し下さい。私は三十八年前に別れた女性の消息を求めてます。それは初恋の爽やかさには程遠く、身勝手な男の一方的な別れでした。自己嫌悪と罪悪感に苛まれながら、私は長らくその女性のことを意識して参りました…」

学生時代、彼は肺結核を患い、三年間療養生活を送りました。その時に出会ったのが、療養所で看護婦をしていた彼女です。彼女はともすれば荒んでいく彼の心を支え、献身的に看護をしてくれました。退院後も二人はデートを重ねるのですが、彼の身勝手で一方的に別れたのでした。
彼はそのことに非常に悔い、自責の念にかられていたのです。
彼(63才)の一家は、戦後、朝鮮半島から引き揚げてきました。生活の糧を求めて各地を転々と移り住み、最後に大阪へたどり着いたのです。
台所もトイレもない薄汚れた引揚者寮の一室でした。年老いた両親と姉の一家四人は肩を寄せ合い、貧しい暮らしに耐えていました。彼の年離れた姉は戦争未亡人でしたが、一家の家計はその姉の僅かな収入で支えていました。
彼が大学進学を迎えた時、両親は生活の苦しさを理由に大反対しましたが、そのお姉さんが両親を説得し、学費を捻出するためにミナミのキャバレーへ初めての水商売に出たのです。
彼は姉の献身に報いるべく必死で勉強し、関西の名門国立大学に合格しました。 大学に入学した彼は当初こそ真面目に勉学に励んでいたのですが、お姉さんの稼ぎを良いことに、次第に映画や麻省にうつつを抜かすようになり、その自堕落な生活がたたって、三年生の春、肋膜炎を発症しました。連日高熱が続き、一ケ月が経っても病状は収まりませんでした。そして、肺結核と診断されたのです。 彼が緊急に運ばれた療養所に、彼女がいたのです。彼女は二十才、清純で優しさの漂う初々しい看護婦でした。
その療養所は大阪の郊外に位置する田園地帯の丘の上のありました。旧陸軍の施設をそのまま利用したという病棟は古びた校舎を思わせるような建物で、十棟ほどが広大な敷地の中に点在していました。周りには人家はなく、隣接する幾つもの潅漑用の溜め池の土手には、療養所と外界を遮断するかのように鉄条網が張り巡らせてありました。今ではもう廃院となっているこの療養所は、当時結核専門の病院として、戦中よりの歴史を有し、ベット数八百を超えるかなりの大規模な病院でした。
緊急入院した彼の身体は衰弱しきっており、半年以上も個室のベットから起き上がることができませんでした。
翌年の春、やっと病状が落ち着き、彼は個室から六人部屋に移ることができました。彼女はその部屋の担当の看護婦でした。
彼女は無口でおとなしい性格で、規則通りに大きなマスクをつけてほとんど素顔を見せることもなく、また、患者と軽口を叩いたりなど決してしない、どちらかと言えば地味な存在でした。しかし、黙々と仕事をこなす彼女の姿は患者達の信頼と好感を集めていました。
彼の病状は入院した翌年の春には一応安定したものの、夏になると周期的な病巣の活性化のために再び高熱に襲われ、彼はその苦しさと闘っていました。
そんな時、同室の患者がいつもの巡回にやってきた彼女に、「勤務が終ったら、アイツを見舞ってやってほしい」と密かに声をかけたのでした。おそらく、若い二人をからかうつもりの冗談だったのでしょう。
その日の夕方、彼女は制服姿のまま彼のベットの側に座りました。彼女は彼に何も話しかけませんでした。彼もまた何を話していいか分りませんでした。ほとんど会話のないまま、消灯前に彼の氷枕を取り替えて、彼女は帰っていきました。 このことがあってから、彼は彼女の存在を意識し始めました。
秋になると、彼は担当医から最悪の宣告を受けました。肺に生じた空洞があまりにも大きすぎて、もはや手術などの治療は不可能であると言うのです。安静にしている以外方法はないということは、治瘉の見込みが薄いということを意味していました。
彼は初めて死の恐怖を感じました。そして、自堕落だった自分の学生生活を悔い、姉の献身に対して報いることができなくなったことへの自責の念に胸が塞がっていました。
医者から「外科療法は不可能」と宣告されて彼は、自らの“死”を見詰めるようになりました。
彼が入学したあの名門大学を卒業し、一流企業へ就職して、姉を水商売から引かせ、一日でも早く楽をさせてやりたい、やっと親孝行らしいことができる、という彼の夢は無残にも破られたのです。姉がミナミのキャバレーで働き、学費を援助してくれることをいいことに、映画や麻雀に耽り、揚げ句の果てには結核を患うようになった自堕落な学生生活と自らの不甲斐なさを、彼は心の底から悔いていました。自分を大学へ行かせるために身を削るようにして働いた年老いた両親と姉の恩に、もはや報いることができないと思うと絶望感だけが彼を支配しました。
彼の心はますます荒んでいきました。同室の患者ともほとんど口をきかなくなり、ちょっとしたことでも苛立って看護婦達を手こずらせました。
そんな時、彼女は当時始められたばかりの「肺の切除」という新しい手術を彼に薦めました。しかし、この手術はまだまだ失敗例も多く、ひょっとしたら手術台から生還できないかもしれないという代物だったのです。
彼女が薦めてくれた手術は、当時、まだまだ成功例が少なく、手術台から生還できないケースが多々ありました。彼にとっては「不安残る」どころか、死の恐怖さえ伴うものでした。しかし、安静にしている以外、他に方法がないということは治癒の見込みがないことを意味しているのもまた理解していました。
彼はイチかバチかこの手術に賭けたのです。しかし、それには体力の回復が前提であると医師から通告されました。
彼女は担当医の許可を取って、軽い運動のために、毎日彼を散歩に誘い出しました。
風のない暖かい冬の夕方でした。結核患者にとって日差しは禁物であることをよく承知している彼女は、わざわざそうした時刻を選んだのです。
<続>

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