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星に願いを(2) | 秘密のあっこちゃん調査ファイル:

これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
 「もう、花の色も見られなくなるかもしれないなあ」
 梅雨に入り、しとしとと降り続く雨が病院の植え込みをぬらし、鮮やかなブルーの紫陽花に水滴をしたたらせていた。
 信治が入院して、ニケ月がたった。
 その間にも信治の視力は急速に衰えていった。
 視力検査の結果は0.1。眼の痛みもだんだん激しくなり、頭痛や耳鳴りもした。医師の説明では、眼の炎症であるぶどう膜炎と眼底出血を繰り返しているということだった。
 信治はあの日以来、むさぼるようにあらゆる医学書を読んでいたが、どの本に書かれている説明も似たりよったりだった。
 いわく、症状は一進一退が繰り返されるが、視力の低下は進み、0.1くらいの状態がしばらく続き、もう一度炎症を起こすと視力は戻らなくなる-。
 今の症状はこの説明とびったりと当てはまった。
 ある医学書には、寒い時期に炎症発作が起こる傾向が強いとも記してあった。
「わずかながらも見えるのは、冬までかもしれない」
 信治は、まだ絶望の淵から立ち上がれないでいた。
 いったいどうなってしまうのだろう。失明すれば、キャプテンはおろか、船に乗ることさえ不可能だ。それよりこれからの人生、どうやって生きていけばいいのか?
 信治にとって、一生暗闇の中で生きていかねばならないことは〝死″以上の恐怖だった。
 そしていつも思うのは母親のことだった。
 信治は三歳の時に父親を交通事故で亡くしている。
 あとに残された母親は幼い信治をかかえ、あまり丈夫ではない体にむち打って、働きづめの毎日だった。やはり船乗りだった父親の夢も船長になることで、その夢を息子にすべて託し、貧しい生活だったが学校も出してくれた。
 信治の方も何とか国家試験に通り、すべてこれからという時だったのに…。
 母は信治のキャプテン姿を見ることだけを支えに、生きてきたようなものだ。僕は母にまだ何一つしていない。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 病院の早い夕食が各ベッドに運ばれてきた。
 信治が生ぬるくなった食事にのろのろと箸を伸ばしかけた時、若い看護婦が病室へ飛び込んできた。
 「木村さん、叔父さんからお電話です! お母さんが倒れられたとかで…!」
 「えっ、母が?」
 「さ、早く。電話はつなげたままにしていますから」
 信治は関節炎で痛む足をひきずりながら、ナース・ステーションに駆けていった。
 通夜の目、信治は男泣きに泣いた。
親戚や知人の前で、人目をはばかることもなく泣いた。
 祭壇の中央には、この春、いとこの結婚式の時に撮った母の写真が飾られていた。その顔は、まだまだ若く美しかった。四十二歳の若さであった。
 もともと丈夫ではない上に、若いころからの無理がたたったのだろう。三軒向こうに住む叔父がたまたま訪ねてきた時、母はすでに倒れて苦しんでいたという。あわてて救急車を呼んだが、病院に向かう途中で息をひきとった。心筋梗塞だった。
 信治のキャプテン姿は、結局見せてやることができなかった。
 嫁の顔も、孫の顔も見ずじまいだ。最後まで苦労をかけ通しで、何一つ親孝行らしいことをしてやれないまま、母は逝ってしまった。
 それからというもの、信治の毎日は荒れ放題だった。
 最愛の母の死と、自分にこれから起こることを思うと、絶望は深まるばかりだった。
 病気を呪った。運命の過酷さを呪った。
 すべてが信じられない。自暴自棄になってすさんでいく心を、自分自身で持てあましていた。
黙って病室を抜けだす。消灯時間は守らない。夜中に病院内をうろつく。病室でも平気でたばこを吸う。
眼科病棟の看護婦たちは、そんな信治の態度にずいぶんと手を焼いていたようだ。
 そんな中で一人、親身になって信治の世話をしてくれた看護婦がいた。
 彼女の名は河端佳子。十八歳で、まだ准看護婦だった。
 病院に勤務しながら定時制高校に通い、高看を目指している。出身は山形だと言っていた。
 佳子は信治に優しかった。やけを起こしている信治を、姉のようにいたわってくれた。信治も彼女には年下とは思えないあたたかいものを感じていた。
 信治が病院を抜け出すと、ほとんどあきらめ顔の看護婦の中で、彼女だけは必死になって探し回ってくれた。そのくせ信治がひょっこり戻ってくると、にっこり笑いながら、
「木村さん、これからはナース・ステーションに一言声をかけてからにして下さいね」
 と、決して責めるようなことはしない。
 佳子がたまの当直の日、いつまでも部屋の明かりを点けていると、
「眠れないんでしたら、向こうで少しお話しをしましょうか」
 と言ってくれた。
 たばこが見つかった時は、
「灰皿がキャンディーの空き缶じゃ危いから、木村さん専用の灰皿がいりますねえ。でも、他の患者さんに迷惑だから、たばこは面倒でもロビーに行って下さいね」
 と優しくさとしてくれた。
 信治をなぐさめ、はげまし、時にはしかってくれる。
 佳子と話していると元気が出る。彼女の言うことなら素直に聞けた。佳子の存在が、唯一の救いだった。かたくなだった信治も、いつしか佳子にだけは心を開くようになっていた。
 これが佳子の非番の時になると、とたんに機嫌が悪くなる。
「もう! 木村さんは、河端さんでなきやあダメなんだから……」
 ほかの看護婦は、半分笑いながらぼやいていた。
 眼の痛みはもとより、耳鳴りや嘔吐や不眠には相変わらず悩まされていたが、やがて信治も次第に生きる気力を取り戻していった。
 失明後の生活について、きちんと向き合っていかなければ。
 病室や診察室では、時折、担当医や佳子らに相談を持ちかける信治の姿を見かけるようになっていた。運命を呪っていただけの彼が次第に目標を見つけ、前向きに今後の人生を考え始めるようになったのだ。
 俺に生きる勇気を与えてくれたのは佳子だ。
 佳子はいつでも明るく快活だった。にっこり笑うと頬にえくぼが浮かぶ。
 笑顔がチャーミングだ。
 そう信治が感じ始めたのは、いつごろからだったろうか。
 自分の立場を思えば、この気持ちを彼女に伝える勇気はとてもない。
 しかし今はただこうして佳子と一緒にいたい。
 夜になるとよくふたりで屋上に上がり、信治のギターに合わせて歌を口ずさんだ。
<続く>

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