これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
平成二年、当社が法人になり、事務所を現在の心斎橋に移転して間もない六月のある日、私は一通の手紙を受け取りました。
『拝啓、突然お手紙を差し上げましたのは、貴社のような仕事をされている所を、去る四月以来探しておりましたところ、やっと最近になって新聞記事で発見し…』と始まるその手紙は、友人の初恋の人を探してほしいというものでした。
差し出し人は水戸在住の六十八才の男性で、その友人というのは台湾の方だったのです。
この台湾の友人、謝さんは戦前、日本の大学で学ばれ、手紙の主の水戸の男性とは大学の同期生だったと言います。彼は四月に台湾で、実に戦後五十年ぶりに謝さんと再会し、その折に彼の初恋の人の行方の調査を依頼されて帰国したのだということでした。
謝さんは昭和十六年、大学を卒業後、ひき続き日本で大手商社に就職しました。その時の同僚で同い年の彼女が、今回探してほしいという人でした。
謝さんは花博が開催される折に来日するので、それまでにどうしても彼女の行方を知りたいという、強い希望を持っておられました。
戦後五十年ぶりに再会した大学の同期生、台湾の謝さんの強い想いに動かされて、当社に代理で依頼されてきた六十八才の男性の手紙には、謝さんと初恋の人との関わりが詳しく記されていました。
謝さんは、昭和十六年、日本の大学を卒業後、東京の大手商社に就職しました。彼女もその商社に同期で入社していたのでした。
謝さんは、入社当初から彼女に強い憧がれの気持ちを持っていました。やがて、仕事のことで何回か言葉を交すうちに親しく話すようになり、依頼人も含めて四-五人のグループでハイキングに出かけたこともあったと言います。
ところが、彼女が家庭の事情で転職し、戦局の悪化も伴って謝さん自身も商社を退職し、昭和十八年、台湾へ戻っていきました。 それ以来五十年間、謝さんは依頼人とはもちろん、初恋の彼女とも一度も会っていなかったのです。
五十年ぶりに依頼人と再会した謝さんは、彼女がどうしているのか気がかりだと切々と語ったと言います。そして、できることなら来日した折に再会したいとも…。
そんな訳で、彼の“謝さんの初恋の人”探しが始まったのでした。
台湾から帰国した依頼人は、五十年ぶりに再会した大学の同期生、謝さんの要望に応えるべく、早速、謝さんの初恋の人探しの調査を開始しました。
二人の古い記憶を頼りに、彼女が戦前に住んでいたという東京都荒川区小岩あたりで、彼女の旧姓を四-五軒訪ね歩きました。しかし、該当者は見つかりませんでした。その近くの派出所にも尋ねましたが、戦前の地図など一切残っていませんでした。彼はまた区役所にも出向き、事情を話して調べてもらおうとしましたが、『プライバシーの保護』という理由で回答してはもらえなかったと言います。
謝さんが花博見学のために来日する日はどんどん迫ってきます。けれど、調査は一向にはかどりません。思案に暮れている時に、偶然にも当社の記事を目にしたのでした。
彼が当社に依頼してきたのは、今年と同じようにうだるような真夏日が続く、平成二年八月も半ばのことでした。
私達は、盆休みもそこそこに、調査にかかり始めました。私達は謝さんのために、何としても花博が終了するまでに、彼女の所在と近況を把まなければならなかったのです。
『五十年前に別れた初恋の人を探してほしい』という台湾の謝さんのために調査を開始して二週間。
私達に分ってきたことは、やはり五十年も経つと記憶違いが多いということでした。彼女が暮らしていたという地名は、現在も五十年前も存在せず、また父の生業であったという糸問屋についても、近辺の聞き込みからは存在したかどうかすらの確証も把めませんでした。
また、謝さんと彼女が勤務した商社は東京に本社を置く日本でも有数の企業として成長していましたが、戦前の雇用名簿などは全て廃棄処分に付されていました。
残るは彼女の姓から、代替りをしているのであろう実家か親せき筋を探し出すしか他に手だてがありません。ところが、大都会東京においてそれを成し遂げねばならないのですから、それは正に砂漠の只中で砂に埋もれたコインを探すに等しいものでした。ましてや、実家や親せきが、この五十年の間に地方に転居していれば、調査はより一層困難なものになっていきます。 それに加えて、私達に与えられた時間はそれほど多くはありません。
朝から夜までの聞き込みで、もう受話器など握りたくもないという気になったころ、天の助けか、彼女の弟さんの家にぶつかったのでした。彼女は、戦後間もなく結婚し、現在も東京都内に在住されていました。一人娘も嫁つがせ、ご主人も彼女自身も元気で暮していると、弟さんは教えてくれました。
私達は、謝さんが来日する期日に間に合ったという安堵感と、もう受話器を握らなくて済むという解放感で、喜び勇んで彼女に連絡を入れました。
彼女は、突然五十年前の話を切り出されて最初は非常にびっくりしておられましたが、懐しい謝さんの名前や、謝さんの大学の同期で今回の調査を謝さんの代理で頼んでこられた依頼人の名を聞くと次第に打ち解け、話が弾んだのでした。 『で、謝さんはお元気なのですか?』
『ええ、今は台北で貸ビル業を営なんでおられるそうです』
『そうですか。懐しいですねぇ。あれから、五十年ですものねぇ…』
彼女の反応の良さに気をよくして、私は依頼人に報告書を送ったのでした。
折り返し、彼から丁寧なお礼の手紙が届きました。 『…ご多忙中、色々不明なことでお手数をお掛けし、恐縮でした。その上、こちらよりの申し出が不備であったにも拘わらず、判明させて頂き、心より感謝いたしております。つきましては、台湾の謝に早速連絡を入れましたところ、来日時の再会を心待ちにしているとのこと…』
私はその手紙ですっかり安心し、そして仕事の忙しさにかまけて、謝さんのことをすっかり忘れかけていました。
『花博、閉幕』というニュースを聞いたその年の秋のある日、私は突然謝さんのことを思い出し、依頼人に電話を入れました。
連絡を取った時の彼女の反応の良さに、私は謝さんが彼女と五十年ぶりの喜びの再会を果したであろうと思い込んでいました。しかし、依頼人からは意外な返事が返ってきました。
謝さんが来日した時、連絡を入れると、彼女は『今さら会ってもしかたがない。お互い伴侶もいることだし…』と再会を拒否したと言います。
『戦争のためにこうならざるを得なかったが、それにピリオドを打ちたかっただけなのにと、謝もがっかりしていました』
私は彼からその話を聞いた時、何とも言えない悲しみに襲われました。
二人が別れざるを得なくなって五十年。その間、二人の歩んだ道は異なり、お互いの身の上にも様々なことが起ったでしょう。彼女にもいろいろな事情があるだろうということは十分理解できます。けれど、生まれては死んでいく人の人生の中で、六十億はいるという人間の中で、同じ時間、同じ空間を共有し、一度でも心通わせた相手に再会することに対して、私はそれほどむつかしく構えることはないのではないかと思うのです。ましてや、この世でもう一度会えるかどうかも分らない相手なら、なおさらのことだと…。
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