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妻子のために軍人恩給を(1) | 秘密のあっ子ちゃん(130)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 今年も八月十五日が近づいてきました。戦後五十年以上が経ち、あの時代を体験した人々も少なくなってきて、その記憶も風化してきていると言われています。 しかし、こと依頼人の想いを見る限り、それは風化していくどころか、戦争体験の悲惨さやつらさを子供達や孫達に伝えていかなければという想いがますます募っているように私には思われます。
 先日も、七十四歳になる老人がその妻と共に当社を訪れました。彼の最大の目的は軍人傷病恩給を請求することにありましたが、それはその実、お金の問題ではありませんでした。
 彼は昭和十八年秋に海軍に入隊し、駆逐艦に乗艦して任務を遂行していました。 昭和十九年暮、南方への出撃中途上において、敵機の攻撃を受け、被彈して重傷を負いました。意識不明となった彼が気づくと、被彈した胸部をあら縄でぐるぐる巻きにされて、仮設病院として使用されていた小学校の床に横たわっていたと言います。
 かろうじて生き残った傷病兵を急遽、収容した浜辺の小学校は、十分な治療ができる医療設備も整っているはずもなく、彼は肋膜炎を併発し、その後、肺結核を発病してしまったのでした。
 その後、小学校の仮設の病院から、当時、療養所として使用されていた温泉旅館に移され、完治しないまま終戦を迎えました。
 肺結核であったため、療養所では隔離状態にありましたが、近くの町々がB29やP51の猛爆に合う様を窓から目のあたりにし、看護婦から壊滅状態であったと聞いた時は、あまりのくやしさと腹立たしさに涙したと、彼は私に語りました。そして、参戦できない自分の状況に非常な負い目を感じたとも言います。
 結核が治り切らないまま復員した彼は、昭和二十二年、昭和二十五年の二回にわたり、計三年、入院加療を続けました。しかし、病気は一向に完治せず、昭和二十八年、再々入院し、右肺上部と肋骨七本を切除する手術を受けました。昭和五十五年には、肺気胸を起こし、「治療不可能」と宣告されたものを、担当主治医の尽力で、国立病院に緊急に転送され、一命を取り留めたのでした。
 彼の戦後は病気との戦いだったのです。
 当時は「不治の病」と言われた肺結核。彼のために、両親は山や田畑を売却し、治療費を工面してくれました。結婚後は、妻や子に不自由な思いを強いらざるを得ませんでした。
 しかし、病気による自らの辛さのみならず、両親や妻子に苦しみを与えることになる、この病の原因が戦争で受傷したためだということを、彼は戦後、誰にも語りませんでした。それは今に至ってもそうでした。怪我をして帰ってきたことを「大日本帝国海軍」の恥であると考えていたからです。ですから、療養中に発行された傷病に関する証明書などは、復員する前に廃棄していました。
 ところが、五十年間の入退院の繰り返しの中で、先日、たまたま同室となった人から、十年前に恩給を請求しそれが認められ、現在受給中であることを聞かされました。その人も戦争で受傷し、依頼人とよく似た症状で入院していたのでした。
 彼はしばらく悩んでいましたが、自分の罪悪感や負い目、そして「恥である」という考えを捨てて、長い間苦労をかけた妻子のためにも恩給を請求しようと決意したのでした。
 人はその戦争体験についてあまり語りたがりません。それは、原爆の被爆であっても、南方の激戦地における経験であっても、その体験が苛酷であればある程、悲惨であればある程、その傾向が強くなります。
 依頼人も自身の戦争体験について、戦後五十年間、家族や友人の誰一人にも話したことがありませんでした。彼の場合はその体験が悲惨であり、苛酷であったということだけではなく、受傷したまま終戦を迎えたことに対する「負い目」ということが加味されていました。空襲を受けて燃え上がる町が空を真っ赤に染めていくのを、彼はただなす術もなく、病室の窓から眺めていたことを「大日本帝国軍人」の恥と感じてきたのでした。
 たまたま、同室の入院患者から、十年前に恩給を請求しそれが認められて、現在受給中だと聞いたことをきっかけに、今回、彼が自分の恩給を請求しようと考えたのは、単に金銭の問題だけではありませんでした。 五十年以上の昔のことにいつまでも罪悪感や恥であるという考えに捕らわれ、長い間苦労をかけた妻子に何ら報いることなくきたことへの一つの踏ん切り、つまり、彼自身の人生の総括であったのでした。
 私は依頼人の話を聞いていて、何故、今、彼が五十年以上も経って軍人傷病恩給を請求する気になったのか、その真意を理解しました。
 彼が必要としているのは、請求のための現認証明でした。
 しかし、受傷を恥であると考えていた彼は、療養中に発行された傷病に関する証明書などは全て廃棄していました。また、療養中に終戦を迎えた彼は現隊に復帰せずに復員したため、軍隊手帳や部隊発行の各種の証明書、軍服などは当時、全て本隊で保管していて、彼の手元にありませんでした。加えて、入院していた場所というのが温泉旅館を臨時に療養所として設置されたもので、もちろん今は存在せず、それに病気が肺結核であったため、隔離状態であった彼の入院状況を証言してくれる同室の患者もいませんでした。
 従って、彼が戦闘のなかで負傷し、それが原因で長年患ってきたことを証明するのはなかなか困難なことでした。
 彼は私達に、とりあえず負傷時の駆逐艦に同乗していた上官や戦友の消息を調べてほしいと言いました。まだ健在なら、そのうちの誰かが自分のことを記憶していて、証言してくれるかもしれないと言うのです。
 私達は依頼人の意向を受けて、彼の上官と戦友の消息を当たり始めました。彼と共に駆逐艦に同乗し、彼の負傷を記憶している人を探し出して、証言してもらうためでした。 依頼人の記憶では、その時の戦闘で当時の上官であった少尉が彼と同様に負傷したとのことでした。また、特に重要なポイントになると考えられる人は、班長であった兵長と上等兵です。彼は意識を失っていて知らなかったのですが、運び込まれた病院の看護婦の話によると、この二人が最後まで付き添ってくれていたと言うのです。
 私達はこの三人を重点的に探し始めました。とは言っても、三人について彼が知っていることと言えば、部隊名と氏名と「三人ともおそらく東北地方出身ではなかったか」ということだけです。 なにはともあれ、スタッフは防衛庁を当たりました。「プライバシーの保護という問題があり」と、とかく調査拒否が多い役所の中で、防衛庁はこういったケースに関して常に協力的です。いろいろと資料を調べてくれました。しかし、残念なことに、この部隊についての活動記録が一切残っていなかったのです。
 防衛庁では非常に好意的に様々な資料を調べてくれましたが、依頼人が所属していた部隊に関する活動記録は一切残っていませんでした。

<続>

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