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学生街の喫茶店(2) | 秘密のあっこちゃん調査ファイル:

これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
 その時のことはよく覚えている。
 陽春の強い光を受けて、樹々の濃い緑がきらきらと光っていた。シルクロードの窓から見える通りを歩く学生たちには、そうした穏やかな春の午後がだるそうだった。
 カランカランとカウベルが勢いよく鳴り、十人ほどがドヤドヤと店内になだれ込んできた。

「いらっしやいませ」
 貴恵が振り向いた時、モジャモジャしたあごひげが目に入ってすぐに「ヒゲさんたち」だとわかった。水をテーブルに運んでいき、その時初めて、見慣れない人物が座っているのに気がついた。
 黒のタンクトップにモスグリーンの麻のジャケット。何かスポーツをしているのだろうか。サーファーっぼい日焼けした肌が精悍な顔の輪郭をよけい際立たせている。額にかかるサラサラの長い髪の毛と、かけていた黒いサングラスで、顔はよくわからなかったが、あきらかにほかの学生とは違う雰囲気を漂わせていた。
 グラスの水を口にした時、はずしたサングラス下から彼の涼しそうな目元がのぞいた。
「何にしましょう」
 貴恵はドギマギしてしまい、それだけ言うのがやっとだった。
 以来、田中は日に一度か二度、必ずシルクロードに顔を見せるようになった。ある日など四度やってきた時もある。誰かと一緒の時もあったが、ヒゲさんたちとは学部が違うせいもあって、一人で来ることも多かった。
 当時はDCブランドの全盛期で、田中はたいていニコルの服を着ていた。学生にとってはかなり高価になるだろうその服も、彼が着ると決していやみにはならなかった。ブランドイメージそのままの、落ち着いた大人の雰囲気を持っていたせいだろう。
 年齢にそぐわない包容力があり、とりわけ貴恵には優しかった。
好きになるのに時間はかからなかった。あこがれていた。しかし貴恵にとっては雲の上の存在だ。
「私のことなんか眼中にないわ」
 思いを伝えようという考えさえなかった。
その日は夏休みを前日にひかえ、シルクロードの店内も何とはなしにソワソワしていた。席を埋めた学生たちは、思い思いに休暇中の計画を練っている。彼らの浮かれた表情をぼんやり眺めながら貴恵は遅い昼食をとっていた。
「いいなあ、大学生は」
 専門学校の勉強とバイトで毎日忙しい貴恵には、無縁の世界だ。
 扉のカウベルが鳴り、田中が一人で入ってきたが、あいにくテーブルは満席だ。みんな話に夢中で、席を立とうとする者はいない。
 田中は一通り店内を見渡すと、貴恵の向かいの席を指さした。
「ここ、かまわない?」
 ちょうどピラフを口いっぱいにほおばっていた貴恵は、口をもぐもぐさせながらこっくりうなずく。
 今までヒゲさんグループの間でお喋りすることはあったが、ふたりきりで向かい合わせに座るといったシチュエーションは初めてだ。ほかの学生相手になら気軽に話せる貴恵も、相手が田中ではまた別だ。彼女はとりあえず目の前のピラフを黙々と食べていた。
 田中は、スプーンを口に運ぶ貴恵の右腕を見ながら何げなくつぶやいた。
「その時計は、もう貴恵ちゃんにはちょっとかわいすぎるなぁ」
 貴恵がつけているのは、高校時代から愛用しているミッキーマウスの腕時計だ。
「やっぱりそう思う?」
 ピラフを食べる手を止めて田中の顔を見る。
「けど、どんな時計がいいのかわかんないし……」
「だったら、今度、一緒に時計買いにいこう。難波あたりがいいかな」
「ほんと?だったらどんなのがいいか、田中さん、選んでくれる?」
ついさっきまでのゆううつな気分が一気に吹き飛んでいた。
田中さんとふたりで買い物に行ける。
旅行やドライブではないけれど、貴恵にとってはそれは天にも昇るようなよろこびだった。
<続く>

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