これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
大学が夏休みに入ると、シルクロードに来ていた学生たちの足もばったり途絶えてしまう。田中のいるヒゲさんグループともしばらく御無沙汰になった八月のある日、当のヒゲさんから店に電話が入った。
「貴恵ちゃん、ヒゲさんたちが来週海へ行くんだって。店のみんなもどう?って誘ってくれてるのよ。私たちは行くつもりだけど、貴恵ちゃんはどうする?」
「私?うーん、引っ越しの用意もあるし、やめとく」
ほんの数日前に、貴恵の家は家業の都合で市内への引っ越しが決まっていた。だから「引っ越しの準備」で忙しくなるのは嘘ではない。しかし正直なところは、田中に自分の水着姿を見られるのが恥ずかしかったのだ。
買い物に行く約束はまだ果たされていなかった。いつ行くとも決めずに夏休みに入ってしまっていた。引っ越せばここのバイトもできなくなるだろう。しかしそれまでまだ一ケ月はある。
「もう一度ぐらいは店で会えるよ」
楽観的に考えていたのだ。
しかし田中は八月いっぱい、シルクロードには現れなかった。
夏が終わり、貴恵はシルクロードを辞めた。
引っ越してからしばらくして、ヒゲさんグループの一員の津田から電話がかかってきた。津田は海へ行ってからも何回かシルクロードに遊びにきており、グループの中では唯一貴恵の引っ越しを知っていた学生だ。
「つきあってほしい」
津田の申し出を無難な口実で断りながら、貴恵はまったく別のことを考えていた。
これが田中さんからの電話だったら、どんなにかよかったろう。
津田は悪い人間ではないし、嫌いではない。しかし田中の友人と交際する気には、とうていなれそうにない。
田中は自分の電話番号はもちろん、引っ越したことさえ知らないのだ。自分の連絡先を田中に伝えてほしい。彼が今どうしているのか知りたい。けれどそんなことを津田に頼むわけにはいかなかった。
受話器を置いた時、田中の顔が浮かんだ。貴恵の中の彼は、いつも上質の服に身を包み、まわりの学生たちから飛び抜けてカツコいい。胸がキュンと締めつけられ、鎖骨のあたりが痛くなるのを感じた。
秋になってからも二、三度、シルクロードへ手伝いに行く機会はあった。しかし、貴恵が店に出る日には、田中は来なかった。
「いつもよく来てるのに、今日に限って来ないねえ」
姉妹は貴恵の気持ちを推し量るかのようにそう言った。
貴恵には田中に会いに、キャンパスまで入っていく勇気はない。喫茶店では学生たちと何へだてなく話せる彼女だったが、校門を一歩入ったそこは、まるで別世界だった。
また会える。そのうち会える。そう思っているうちに冬が来て、やがて貴恵も店に顔を出さなくなってしまった。
翌年の春には、田中のことは貴恵の思い出の一つになっていた。
「ふーん、『初恋の人探します』か……」
新聞を眺めていた貴恵は、ふとあるページで手を休めた。
いつもなら読みとばしてしまう広告ページを見る気になったのは、鳩が手紙をくわえている探偵事務所らしくないイラストに心ひかれたからかもしれない。
「私にもそういう人がいたなあ」
貴恵は田中のことを思い出していた。
今は平成四年の正月。彼女は二十五歳になっていた。
あれからまた恋をし、結婚し、子供を産み、そして離婚した。
シルクロードの姉妹とは今も年に一、二度電話で話をするつきあいだ。
「あのころの常連さんたち、ヒゲさんたちもみんな元気にしてるかな」
電話の最後は、決まってあのころの話になった。彼女たちの懐かしそうな言葉を聞くと、貴恵も口にこそ出さないものの、いつも思っていた。
「田中さんは今どうしているのだろう」
吉田栄作を初めてブラウン管で見た時は「田中さんそっくり」と思わず心がときめいた。どんどん人気が出てきて彼が頻繁にテレビに出るようになってからは、ことさら田中のことが思い出されたものだ。
貴恵にはK大卒の男性と結婚した友人が何人かいる。彼女たちを通じて聞いてみれば、田中を知っている人間もいたかもしれない。しかし、改めて尋ねるのも逆に「何のため?」と聞き返されそうで、それが煩わしかった。
探偵社に頼んで人探しの調査をしてもらおうかとも考えたのだが、つい蹟躇してしまう。わけもなく怖かった。あとで高い料金を請求されるのではないかという不安もあった。そうこうして二の足を踏んでいるうちに月日は流れていたのだ。
同じ探偵らしいけど、ここは何か安心できるイメージがあるし料金も安い……。
「ここなら、いいかもしれない」
貴恵は受話器を取っていた。
<続く>
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