これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
それは昨年の秋の初めのある夕方のこと。中年の男性から慌てふためいたような声で電話がありました。 「お宅とこは家出なんかもやったはりまんのか?」 かなりぞんざいな言い方です。
「ええ、内容によってはお探ししていますけど、どなたが家出されたんですか?」と私。
「嫁はんなんですわ。チビらを連れて出てますんや。昨日、幼稚園に行ってる上のチビが携帯に電話してきて、『パパ、早く帰りたい』と言いよりまんねん。『どこにおるんや』と聞いても、『分らん』としか答えませんし…。アイツらが可哀想で、居ても立ってもおれませんねん」
どうやら、“チビ”とは彼の子供のことのようです。 「どちらにしても、もう少し詳しいお話をお聞かせいただかないと…」
私がそう言うと、彼は聞いてきました。
「これは、そっちへ行かなあきまへんのか?」
「お電話でもいいケースもありますが、お宅様の場合はお会いしてお話をお聞きした方がいいと思います」 「はぁん、そしたらこっちへ来てくれはりまっか?」 彼はそう答えたのでした。
「逢うて話さなあかんねんやったら、悪いでっけどこっちへ来てくれはりまっか?」
彼はそう言いました。
「申し訳ないですけど、ウチは皆さんこちらへお越し願ってるんですけど…」 私が答えます。
「そうできるやったら行きまっけど、忙しいて手が離せないんですわ。不況で三日前に社員五人全員を切ってしもうて、一人でてんてこ舞いですねん。いや、儲かってんのは儲かってまんねんけどね。電話がジャンジャンかかってくるさかい、事務所を空けられませんねん」
不況で社員をクビにしたと言ってみたり、儲かってると言ってみたり、私は内心「話が合わんやっちゃな」と思っていました。
「それでは、業務が終わられてからでも結構ですよ。私も遅くまで仕事をしていますから」
「夜中までかかりまっから、マ、そんなん言わんと、ちょっと来てくなはれな。時間は取らせませんよってに」
「忙しいのはこっちもや」とは思いつつも、「マ、しゃあないな」と今から出向く旨を承諾したのでした。
ところが、指定された彼のオフィスのあるビルの前で落ち合うと、私は再び目が点になってしまいました。
指定された依頼人のオフィスが入っているという、立派なビルの前で待っていると、彼はほどなくやって来ました。いかにも若い頃はブイブイ言わせだたろうなと思える、四十過ぎのがっちりした体躯つきの男性でした。
「無理言うて、えらいすいまへんなぁ」彼はそう言い、「どっか落ち着くとこで、話聞いてもらえまっか?」と歩き出しました。 「そうですネ。そこの喫茶店にでも入りましょう」私はそう答えながら、喫茶店に入りかけました。
ところが、彼は「喉がえらい乾いてまんねん。どっか、ビールの飲めるとこへ行きまひょうな」と言うのです。
「ビールならここでもあると思いますよ」と私。 「マ、そう言わんと。喫茶店では落ち着かんから」と彼はスタスタと歩いていきます。
私は「何やねん、コイツ。酒を飲むとこの方が落ち着かんやんか」と思いながらも、やむなく、ほとんどムッとしながら彼が目指していた小料理屋へ一緒に入ったのでした。
彼は自分の大ジョッキを頼むと、「先生も飲みはりまっしゃろ?」と言ってきました。
私は、「いえ、結構です。それに、私は先生ではありませんので、佐藤で結構です」と答えます。
「先生、酒はいけまんねんやろ?そんなん言わんと、一杯つきおうてくなはれな」 私は「まだ言うか?」と思いつつも、それに、ゆっくり腰を据えて酒を飲む態勢に入っている彼を見て「どこが事務所を空けられへんねん」と思いつつも、いつまでもそんなことに構っていては話が進まないと判断し、「で、奥さんが家を出られたのはいつごろのことなのですか?」と切り出したのです。さっさと依頼の内容を聞いて、早く事務所に帰り、残っている仕事を仕上げたい気分で一杯でした。
「それですねん、先生。話せば長いことですねんけど」と前置きをして喋り出した彼の話は、本当に長い話でした。優に三時間はかかったのです。
加えて、彼の話は主語を明確に言わない大阪弁の特徴そのままで、しかも登場人物が多すぎ、「どれが誰のこっちゃ、全然分らん」ということなり、なおさら時間がかかったのでした。 「どこが『忙しいて手が離せんから、来てくれ』やねん。腰据えて酒を飲んでるやんか!」
さっさと依頼の内容を聞いて、早く事務所に帰り、放ったらかしにしている残りの仕事を仕上げたい私は、優に三時間は超えた彼の話に初めはイライラしていました。
「完璧に酒の相手をさせられてるわ」
ところがそう思った途端、私は全てが分ったのです。 その通り、彼は私に酒の相手をして欲しかったのです。奥さんとのもめ事や奥さんの実家とのゴタゴタ、それに目の中に入れても痛くないほど可愛がっている子供達の身の心配…。友人や親戚や得意先には決して言えない、そうした話を私に聞いて欲しかったのです。いや、彼らに言ったところで、
「それはえらいこっちゃなぁ」
と済まされるだけで、自分の心の苦しみを真底理解してくれないだろうことを、彼はよく知っていたのです。一人で悩み続け、現に彼はここ何日間か食が進まず、禄に眠りもできなかったようです。
「先生、こんだけ食べんのは久しぶりですわ」
彼は言いました。彼は苦しくて、それに淋しかったのです。
「私にもビール下さい!」
私は店の人に言いました。 彼の気持ちが分った瞬間、私も腰を落ち着けて、彼の話をじっくり聞いてあげようと思ったのでした。
彼の話とはこういうことでした。
彼が奥さんと知り合ったのは、彼女の母親が経営しているスナックへ飲みにいった時のことでした。
「今日から娘が手伝いにきてくれるようになったのよ。よろしくね」
そうママに紹介されて一目彼女を見た時から、彼は彼女を気に入ったのです。それからは以前にも増してその店へ通うようになりました。彼の気持ちは母親はもちろんのこと、常連客でさえ知らぬ者はないほどでした。彼女自身もまんざらでもなかったようです。
そのうち店以外でも二人で会うようになり、やがて同棲し、子供ができたのを機に結婚したのでした。 彼は子煩悩で、二人の娘達を大変可愛がりました。夫婦仲も当初は非常に良く、家庭的には何ら問題がありませんでした。
ところが、様子がおかしくなってきたのは、彼が独立して1年くらい経ったころです。
<続く>
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