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戦争に行った彼(2) | 秘密のあっ子ちゃん(114)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

彼の消息は、出征以来、全く途絶えています。
無事、戦地から戻ってきたのだろうか?今も元気に暮らしているのだろうか? そういう想いが頭から離れませんでした。そして、次には息苦しくなる程いつも胸を締めつける想いが湧き上ってくるのです。
もし、あのまま戦死していたら?
やりきれませんでした。 彼女は娘さんを伴って当社にやってきました。
最後の会話を私達に話すと、彼女は「信頼してもらっていたのに、申し訳なくて…」と、涙ながらに言いました。
私は彼女のこの五十年間の悔いを思うと、異物が胃の中に沈殿していくような重く暗い気持ちになりました。彼女も七十才、今世の最後に迎える時に、今のままの気持ちではあまりにも辛いだろうと思えました。せめて、晴れ晴れとした気持ちであちらに行きたいだろうと…。
彼を探す人探しの調査は難行を極めました。
当時の住所地が分っていたとしても、何しろ戦前のこと故、今もまだそこに住んでおられるとは考えにくいことでした。案の定、調査の結果はそんな名前の住人はそこにはいませんでした。その地域の寺にも聞き込みに入りましたが、彼の苗字での檀家は存在しません。
次に、私達は彼の出身学校に聞き込みに入りました。その学校は、戦後、新制高校なり、今は名称も変っています。
事情を理解して下さった教頭先生は、古い書類を倉庫から引っ張り出し、あれこれと調べ始めてくれました。
彼女が覚えている彼の苗字は「伊藤」でした。下の名前は覚えていません。  彼が卒業したという年度の前後を、教頭先生が丹念に調べて下さったのですが、「伊藤」という名はないのです。唯一、「伊東健一」さんという人のみが存在していました。
伊東健一さんの名簿欄には、「大正十四年生、昭和十九年三月卒、鹿児島予科練甲飛十三期、戦死」と記載されてありました。
教頭先生は、「当校出身者であることが間違いなければ、この人しかいません」 とおっしゃったのでした。
その年度前後の卒業生で、イトウという人はこの人しかいません」
教頭先生はそう教えてくれました。
出身学校が彼女の記憶違いでなければ、「伊藤」が「伊東」であっても、この人に間違いないと私達も確信しました。
しかし、彼女の意見は違ったのです。「絶対に『伊東』ではありません。『伊藤』です。思い違いなどはありません」そう言い張りました。
「それでは、学校が記憶違いということなのかもしれませんねぇ…」
ふと漏らした私の言葉に、彼女は目を剥かんばかりに、「いえ!学校も間違いありません!」と言い切るのです。
伊東健一さんが戦死されている今となっては、ご本人に確かめようもありません。
その後も私達は全ゆる手を尽くしました。彼の出身地の伊藤姓はもちろんのこと、国の機関や旧軍関係、はたまた靖国神社にまであたってみたのでした。
結果は、彼が出たという学校の「イトウ」さんとはどうしても全て「伊東健一」さんに繋がるのでした。
そうなると、私達の方が却って、消化不良のような納得いかないものが残っていったのでした。
「伊東」ではなく、絶対に「伊藤」だと彼女は言い張るのですが、どう調査しても、彼女が言う人に該当するのは「伊東健一」さんでした。
こうなると、私達の方が消化不良を起こしてしまいます。そこで、私達は健在である伊東健一さんの弟さんを探し出しました。
「一度、弟さんに当時のことを詳しくお聞きになられては如何ですか?そうすれば、ご本人であるかないかがよりはっきりすると思いますが…」私は彼女にそう提案したのです。
しかし、彼女は相変わらず頑なでした。
「彼は『伊東』ではないのだから、弟という人に会いに行く必要もない」こうです。
人は年を重ねると頑固になると言いますが、彼女の場合は五十年前のうら若い乙女の頃もこんな風に頑迷であったのではないかと、私は思い至ったのです。
その頑迷さが五十年間の悔いを残してきたというのに、彼女は相も変わらず頑くなでした。
彼女がその頑くなさを引きずっている限り、「悔い」は決して消えることはないだろうと、私はそう思いながら、彼女の言葉を聞いていました。

<終>

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