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冤罪を晴らしたい(1) | 秘密のあっ子ちゃん(126)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

探偵の仕事をしていると、時には私達が思ってもみなかったような依頼が入ってきます。
例えば、あるヘッドハンティングの会社からは「クライアントの要望として、これこれの能力を持った人物が欲しいと言われているのだが、どの人がその資格を持った人なのか特定しようがないため接触すらできない。こういった能力を持った人の氏名や住所、年令、出身学校、現在の役職と年収を割り出してほしい」などという依頼が入ってきたりします。
あるいは、ある女性からは「交通事故を起こしてしまったが、示談の話合いの中で恐喝めいたことを言われた。言葉使いもそれっぽいので、先方が暴力団かどうか調べてほしい」という依頼もありました。
また、こんなケースもありました。「いたずら電話がひどく、営業妨害になっている。だいたい誰がしているのかはおおよその見当がついているが、その人物だという確固たる証拠を掴んでほしい」
世の中には本当にいろいろな依頼があるもんだと我ながら驚く始末です。
でも、今までに私が一番驚いた調査依頼は今お話したようなことではありません。今回はその「私が一番驚いた」依頼のお話をしましょう。
その依頼人は「知人の紹介で」ということでやって来られました。
彼は三十才前後の、頭を板前風に角刈りにした体格の良い青年でした。物の言い方も礼儀正しく、かなり厳しい縦社会で過ごしてきたのが容易に想像できました。 彼は「後見人」という叔父さんと一緒にやってきていました。その叔父さんの方はというと、今時珍しいパンチパーマ風で、生粋の河内弁の上に、着ているシャツのデザインや指にはめた太い金の指輪など、どこか堅気ではないような印象を与えました。
私に話すのは、もっぱらこの叔父さんでした。
「いやぁ、どうもこうもひどい話ですわ。先生、何とかコイツのために力になって下さいな」
彼はそう切り出しました。 「実は、コイツは冤罪の罪で、もうすぐ入らなあきませんねん」
「えっ?冤罪?!」
私は驚きました。
「で、何の罪ですか?」 「『傷害』ですねんけどネ。コイツはやっとりませんのや」
「ちょっと、待って下さい。最初から説明してもらえませんか?」
私は「冤罪」の罪に問われた人が今、自分の目の前にいると聞かされ、ただただびっくりしていました。
依頼人の叔父さんの説明によると、事件は十年程前のことでした。ある夜、依頼人が親しかった女性が口論の末、刃物で傷つけられたのでした。当時、彼女は依頼人の心変わりを恨んでいました。
当初、彼女の「狂言」ではという風評もありましたが、傷の具合などからそれはあり得ないことが分ってきました。
彼女と依頼人が最近もめていたこと、それに事件当時、彼女のマンション前に彼の車とよく似た車が駐車されていたという目撃証言が出てくると、疑いは一挙に彼にかかってきました。 しかも、彼にはアリバイを立証する手だてが全くなかったのです。
彼は一人住いでした。当日、彼は前日からの深夜勤務で疲れ果て、早々に帰宅して眠り込んでいました。彼が帰宅した姿を近隣の人は誰も見ていませんでした。夜に一度だけ電話がかかってきましたが、起きるのも面倒で、それにも出ませんでした。
依頼人はいつも自分の車をマンション近くの路上に駐車していました。今程「駐車禁止」をやかましく言わない時代です。しかも、彼のマンション近くにはまだまだ空地や畑がたくさんありました。
その日、深夜勤務が明けて帰ってきた彼は、いつも自分が占有している場所に車を駐車しようとしました。しかし、時間が早かったせいか、そこには別の車が駐車されていました。やむなく、彼は少し離れた場所に車を止めたのです。
それが彼にとっては三つ目の不運でした。彼を知る近所の人は、事件当日、彼の車が戻ってきていることを全く知りませんたでした。 こうして、不運がいくつも重なり、彼はアリバイを立証することが困難となっていきました。逮捕された後、いくら彼が「当日は自宅で眠り込んでいた」と主張しても、それはなかなか聞き入れてもらえなかったのです。
そして、何よりも決定的だったのは、傷つけられた女性の証言でした。あろうことか、彼女は「犯人は彼である」とはっきりと供述調書に述べているのです。 「何故、そんな嘘を言うのか」と、彼は彼女に問い正したかったのですが、容疑者である彼が被害者の彼女に会わせてもらえるはずもありませんでした。
依頼人は冤罪を主張しましたが、それは結局聞き入れられず、一審の裁判が始められました。 裁判でも彼女ははっきりと「犯人は彼である」と証言しました。
「もう、腹の中が煮えくり返って…」
その時の心境を彼はそう語りました。
「彼女は自分を刺した犯人の顔を間違いなく見ているはずでしょうに、何故、あなたが犯人だと証言したんでしょうねぇ?」
話を聞きながら、ずっと疑問に感じていたことを私は尋ねました。
「あれから一度も会ってませんので、直接本人に確かめた訳ではありませんが」彼はこう断ってから続けました。「金にしようと思ったんだと思います。彼女はブティックをしたいと言うので、その金の一部を僕が出してやるという約束をしていました。当時、僕が他の女に目がいったのは確かですが、実はその前にアイツが別の男を作っていたんです。アイツはそれを誤魔化せると思っていたんでしょうが、僕に問い詰められて慌てていました。その男とも金のことで揉めていたようです」
私は何となく彼女のイメージが涌いてきました。
依頼人の冤罪の主張は聞き入れられず、始められた一審の裁判でも彼女は「自分を刺したのは彼である」と証言しました。 「そりゃ、すごい演技力でっせ。証言台では泣き崩れるし、法廷を出る時には倒れるしで…」
彼の「後見役」の叔父さんがそうつけ加えました。 「彼女はそんな嘘を堂々と演技できるような人なのですか?」
「ええ、そういうことは平気だと思います」今度は彼が答えました。
「へえ。で、彼女は何をしていた人なんですか?」 「モデルをやってたんですけど、モデルと言ってもよっぽど有名にならないと食えませんからねぇ。夜はクラブに勤めてました。今は東京に行って、AVかなんかに出てるらしいですけど…」
すると、彼に替わって叔父さんがこんな話を始めました。
「コイツが疑われたのにはワシの責任もあるんですわ。実は、ワシは昔はそこそこの組長でしてね、いや、今は歴とした堅気でっせ。けど、一時コイツにも組を手伝わしてまして、地元の警察には目を付けられてましたんですわ。警察に偏見はないと言っても、アイツの甥ではということもあったんやろと思てます」
「昔は組長だった」という叔父さんの話を聞いて、私は「どうりでこの叔父さんはどう見ても堅気に見えなかったんだな」と、変な所で納得してしまいました。 叔父さんは説明を続けます。
一審は彼に有罪判決が下されました。この頃から、マスコミも彼の事件を取り上げ始めたと言います。
彼は一審の判決が出るとすぐに控訴しました。二審では、彼が無罪を勝ち取りました。しかし、検察側が上告しました。事件は最高裁の判断に委ねられたのでした。
最高裁の裁判中、弁護士もマスコミも彼に「無罪は間違いなし」と彼に語っていました。彼もそれを聞いて安心していました。しかし、結果は逆転敗訴で、彼に懲役二年の刑が言い渡されたのでした。その判決が出たのはつい二カ月程前のことだと言います。
「えっ?!では、収監されるのはいつですか?」
私は驚いて尋ねました。 「今月末です」彼は淡々とした表情で答えました。 「まぁ!それではあまり時間がありませんねぇ」 「ええ、そうなんです」彼はそう言いながら、自分の心境を語り始めたのでした。
「収監は今月末ですから、僕が動ける時間はあまりありません。一時はもういいかとも思いました。懲役二年と言っても未決拘留の分もありますから、ちょっと辛抱すればすぐに出てこられる訳ですから…。でも、やっぱりこのままではやってもいないことがやったということになりますし、何と言っても、『アイツは痴話喧嘩の末、女を刺した』などとずっと思われるのはがまんできません」
依頼人は自分の心境をそう語りました。硬派らしい彼の意見だと私は思いました。彼は罪に問われて刑務所に入るのが嫌だというよりも、名誉を回復したがっていたのです。 「それで、お願いというのはですね、」叔父さんの方が続けました。
「真犯人がどこにいるかを探してほしいのでわ。この事件をやったのは誰かはだいたい分ってるんです。ところが、ソイツが今どこにいるのかが皆目分りませんねん。あの事件以来、姿を消しているですわ」
「えっ!?真犯人が分っているんですか?」
私は三たび驚きました。本当によく驚かされる依頼でした。
「ええ、だいたいの察しはついています。当時、被害者の女とつきあっていた男です。ソイツも僕の男と似た白い車に乗っていましたし、後で女の連れから聞いた話では揉めていたらしいですしネ。体格も僕と似ていますし、髪の毛もこんな風に角刈りにしていました」
「ソイツはつまらんチンピラですねん」叔父さんがまた口を挟んできました。 「その人のことはよくご存知なのですか?」再び私は尋ねました。
「よくご存知という訳ちゃいまぅけど、地元でチンピラしてたら、ワシの耳にすぐに入りまっさかいな」 「ええ。でも、さっきのお話だけでは、その人が真犯人だということは立証しにくいと思いますが…。それに、警察ではその人のことを疑わなかったんでしょうか?」私は湧いてくる疑問について、そう言いました。 「警察も一時はソイツも可能性があると思ったようですが、何しろ、被害者本人がそれを否定し、僕だと断定していますから、疑いは消えたようです」
今度は依頼人が答えました。
「さき程の話だけでは、その人が真犯人であるということは立証できないのではないか」という私の質問には、依頼人の叔父さんが答えました。
「マ、勘ちゅうモンがありますので、ワシラはソイツに間違いないと思っとりますが、今さら立証するつもりはありません。どっちみち、コイツはもうすぐ収監されるのでっさかい。実は、もう時効が成立しとるんです。ですから、ソイツはもう罪に問われませんのや。ですから、見つけ出せたら、その辺の訳をようよう話して、名乗り出てもろて、何とかコイツの名誉だけは回復させてやりたいんですわ。別に倍償やらどうのこうのと言う気はありまへん。却って、ちゃんと名乗り出てくれたら、面倒見たってもええとさえ思ってます」
「なるほど、そういうことか」と、私はやっとその日、二人がやってきた依頼の意図が分りました。
「先生」叔父さんが私にそう呼びかけて言いました。 「何とか力になって下さいな。うまいこといったら、お礼はちゃんとさしてもらいますさかい。放ってはおきまへんがな」
「先生と呼ばれる程…」という言葉が頭に浮かびながら、私は「料金は正規の分で結構です」と答えていました。却って、「こんなことを言う人程、金払いが悪いや」と思ってもいました。
私は、「後見役」というこの叔父さんのタイプはあまり好きではありませんでしたが、依頼人の無念の想いがよく理解できましたので、この依頼は受けようと思ってました。見るからに律義で、筋を通さなければ気が済まないような彼の性格からして、やってもいないことをやったとされるのは耐えられないであろうことは容易に想像できました。
それでも、どうしても消えない疑問が一つあり、私はそれを尋ねてみました。 「その居所を調べてほしいという人が真犯人ではないかと思っておられたのでしたら、何故今までその人のことを放ったらかしにしていたのですか?」
「ええ。そう思われるのはよく分ります。弁護士やマスコミも皆、『無罪間違いなし』と言ってくれていましたので、僕も絶対無罪判決が下ると信じていたんです。僕としては自分の冤罪が晴れればそれでいい訳で、無罪なら何もソイツを探す必要はないと思っていたんです」
彼の答えに私は「なるほど」と納得しました。
弁護士やマスコミが「これは冤罪だ」と確信したように、私の心象も彼は「白」でした。その根拠の観点は弁護士達と少し異なっていましたが…。
弁護士やマスコミが依頼人を冤罪だと信じた観点とは少し違いましたが、私も彼を「白」だと思いました。

<続>

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