これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
「今を逸しては時期は無い」
南の島々で日本軍の玉砕が数多く伝えられる状況下、義雄は史重を母と伯父に引き合わせた。
「あんたら、もう子供ができるような仲なんか?」
開口一番、伯父は史重の腹のあたりをジロリと見ながら言う。
「そんな、私たち、人様に聞かれて恥ずかしいことは何もしておりません」
史重は紅潮させた顔を上げて憤然と言い切った。正座したひざの上で、握りしめた両手が小刻みに震えていた。待ってましたとばかり母が口を開いた。
「そこまでいってないんやったら、ちょうどよかった。あんたたち、おつきあいはすぐやめて別れなはれ。幸田はん、あんたも今の若いうちに、義雄みたいな何をしてるかわかれへんような男、早うあきらめた方がよろしい。それに今、所帯なんか持ったら、この子、私さえも養うかどうかわかれしません」
「義雄さんは、お母様をほうっておくような人と違います。私たちは、決してそんなこと考えておりません」
「あんたに今、そんなこと言うてもらう筋合いと違います。これから先のことはわかりますかいな。とにかく、私は許しまへんで」
義雄はたまらず、口を挟んだ。
「それやったら、この前からの話と全然違うやないか!お母はんも伯父さんも、ええ娘やったら相談に乗ってやろうと、言うてくれてはったやないか!」
「いや、やっぱり、二人ともまだ若い。義雄、お前はまだ二十二やろ。それに史重はんやったかいな、あんたはまだ二十一や。お母はんの言うように、ふたり一緒になるのはまだまだ無理や。
史重はんもなぁ、こんな、いつまで待たなあかんかわかれへん男をあてにせんと、はよ他のええ人見つけなはれ。その方が幸せやで」
伯父が言う。
「いえ、一緒になれる日まではと、ふたり約束して、今までがんばってきたんです」
史重が涙をぬぐうこともせず言った。
「伯父さん、僕は今まで、何もかも真面目にやってきたつもりです。お母はんの面倒も、当たり前のことやと思ってみてきました。この結婚は、はやり病のように急に思いついたんと違います。ずっと先のことまで考えてのことです。ふたりの約束は、何としても認めてもらいたいのです。僕もいつまでも子供と違います!」
「親の恩は山よりも……」という当時の風潮では、親の許しなしでの結婚は考えられなかったのだ。義雄は知らず知らずのうちに、ひざに置いたこぶしを強く握りしめていた。しかし、彼の訴えは、聞き入れられなかった。
「お母はんの言うことは、聞いとかなあかんなぁ」
伯父は冷たく言い放った。
「失礼します」
史重はハンカチで目を押さえながら、走るように玄関を出ていった。
「ちくしよう! だまされた!史重にあんなひどい仕打ちをするなんて。育ての親と思えばこそ、今まで尽くしてきたのに。言ってやろうか、あんたの子やない、と。昔のことを大声で、ばらしてやろうか!」
史重の悲しみを思うと、憤りと憎しみで体が煮えくり返る思いだった。
見栄っ張りでぜいたく好きの母は、貧困の原因のすべてを「義雄の大病の結果だ」と、ことあるごとに恩に着せていた。義雄の父親ではない男との間にできた兄の病いがもう治らないとわかった途端、手の平を返したように猫なで声で近づいてきた。そうして毎月袋ごと渡している給料でさえ、「たった、これだけか」と聞かされ続けてきたのだ。
海軍軍需部の厳しい任務に入った理由の一つも、こうした母親の態度にあった。
わずか十五歳の少年が八年越しの任務を選択するのに、どれだけの苦悩と勇気が必要だったか、この〝母″には永遠にわかるまい‥‥‥。義雄の心は決まった。
「親を捨てる気か」とののしられても、「駆け落ち者」とそしられても、史重と夫婦になる!
義雄は痛む足をおさえながら、史重のあとを追った。
史重は、自宅近くの暗がりで泣いていた。
さえざえとした月が、史重の姿を浮き上がらせていた。
「史重!」
史重は、黙って義雄の顔を見つめた。
「すまなかった。あんなひどいことを言われるなんて、予想もしていなかった。今日のことは忘れて、僕とふたりだけの生活のことを考えてほしい。ついてきてくれるか?」
史重は黙っていた。
と、突然、辺りに警戒警報のサイレンが鳴り響いた。
「お母さんのあの言葉、私、どうしても忘れられません。もう自信ないわ」
「だから、母のことはもういいから、ふたりだけの問題にしたいんだ!」
「でも、そんなことはできるはずがないわ。私、体を動かすことなら骨身を惜しみません。どんなにつらいことでもあなたの言う通りにします。でも、あのお母さんにはついていけない。………それに、あなたのお仕事も何か不安で……」
空襲警報が鳴り始めた。
「最後の決断だ! 君の命を僕に預けてくれんか!」
ふいに史重が崩れるようにしゃがみ込み、地面に額をつけて泣きだした。
「ごめんなさい! かんにんして! もうついていけません!」
史重は義雄の靴を持ち、激しく泣いた。
今の彼女が、義雄の真意を、決意を理解しつくしているとはとうてい思えない。しかし、もはや時間はなかった。空襲警報は非情に鳴っている。
「警報下だ。急いで!」
義雄は史重を抱き起こし、髪とひざについた土を払って自分のハンカチで涙をふいてやった。
そして、駆け足で彼女を家の戸口まで送り届けた。
昭和十九年九月。満月にこうこうと照らしだされたこの町に、空襲警報のサイレンがいつまでも鳴り響いていた。
時代は昭和から平成にかわり、義雄は七十一歳を迎えた。
あの夜、幸田史重の姿を最後に見てから、実に半世紀もの時間がたとうとしている。
「僕は明日の命さえわからない任務がある。君はいつまで豊せに生きてくれ。祈っている」
史重が家の中へ消えるのを見届けながら、義雄は心の中で叫んでいた。それが、彼にできる史重へのただ一つの、そして、最後の思いやりだった。
史重と別れてからすぐ、義雄には予想通り中国大陸での任務が待っていた。なんとか命は永らえたものの、日本に戻ってきた時には視力をほとんど失っていた。しかし軍籍を持つことができなかった義雄は、戦争で足と眼に障害を受けても恩給を受け取ることはできなかった。
終戦と同時に価値感も一変し、自分の前半生はまったく報われなかったと痛感した。
自分の生命は終戦のあの日に捨てたのだ。海軍の教育が、諜報員としての訓練が、彼にそう思わせていた。戦後の日々は、自分の人生の”おまけ”なのだと……。
しかし義雄はその”おまけ”の人生を戦中以上の苦労を重ねながらも懸命に生き抜いてきた。
戦後、かなりたってから結婚もした。妻のためにも、生まれてきた子供たちのためにも必死に働いた。子供たちだけには、自分が味わったような”親の苦労”をさせたくなかった。
くじけそうになった時、義雄の心をよぎるのは史重の姿だった。
彼女のことは片時も忘れたことはない。
百貨店仲間からは、史重が戦後すぐに地元の池田で結婚したと聞かされた。戦後二十年近く経って「最近見かけなくなった」という風の噂を耳にした時、独力で史重を探しはじめた。
玉屋百貨店のあった商店街や猪名川のボート乗り場には、何度となく足を運び、史重を想った。
軍の任務のこと、母との関係、そして史重を想う気持ち……。史重との最後の夜、空襲警報で途切れてしまったあの時の自分の 〝真実″を、史重だけには知っていてほしかった。
「ほんまに好きやったら、女は奪うてでもつれていかなあかん! あんたら、きれいごとで四年も過ごしたなんて、信じられへんわ!」
大石由美の言葉が、苦々しく思い出される。
初恋は、甘くかぐわしいものと言うけれど、義雄にとっては、わが肉をえぐられ、血潮が吹き出るような苦痛を残す後悔に満ちたものだった。
生涯ただ一人の恋人、幸田史重。
彼女がいれば、自分の人生も変わっていたかもしれない。
もう少し自分らしい人生を生きることができたと思う。
彼女に再会する。ただそれだけを支えに 〝戦後″ という時代を生きてきたのかもしれない。
その後、百貨店の同僚たちが一同に会したことはあったが、史重は消息不明のままだった。
四月二日は史重の誕生日だ。今年で七十歳になる。彼女に何と言われてもいい。花の一つくらいは贈りたかった。
二月中旬、義雄はA新聞に掲載されていた探偵社「初恋の人探します社」を訪ねた。
私はワープロのキーをたたきながら、涙が止まりませんでした。
彼が、直径一センチあるかないかの右目だけの視野で、懸命にワープロを打って綴った、
自伝的小説「二足のわらじ」には、史重さんへの想いがあふれるほどに描かれていました。
若松さんにとって、史重さんとの再会は、きっと彼の七十年の人生と同じくらい重いも
のになるはずです。
しかし、人探しの調査の結果、史重さんは十年前に亡くなっていました。
今、作成している報告書を見た時、彼はどんなにか落胆するだろう。
どんな言葉をかければいいのか。私にはその答えが見つけられませんでした。
この世ではもう二度と史重さんに会えない。
彼にとっては、他人のどんななぐさめの言葉も意味がないでしょう。
生きる気力さえ失なってしまいはしないか。ひそかにそんな心配までしたものです。
若松さんに報告書を手渡してから、一ケ月後、彼から手紙が届きました。
「…心の底まで理解して下さるご助言に『素直になろう』と小生も心洗われる感動で胸
がいっぱいになり、自己の頭の中に、過去、未来、そして、現在を正視するための『仕切
り』を立てるべきだと感じるようになって参りました………」
私は、その手紙を読んで安心しました。
若松さんは、自分の人生をもう一度スタートさせてくれるだろう。
彼は史重さんを探すことで、自分の青春の原点を探していたのだと感じました。過去の
思い出が明日を支える力に変わるのなら、私たちにとっても、これほどうれしいことはあ
りません。
依頼を受けてから一年余り。私たちスタッフは、今でも機会あるごとに若松さんと連絡
を取っています。つい最近の若松さんからの手紙には、こうあります。
「今、日記帳を前に、一年前のことを感慨深く思い返しております。十五日の命日を前に、至急お知らせ下さったご厚意と共に一年後の今日ある自分を改めて見直しております。
『悲しい日になった……予感は当たっていた…』と簡単に走り書きしただけの当日の一行。
そして、十五日のところに、『New History』と赤いサインペンで書いている
のを見て、自分はあの日のお知らせのお陰で、今も尚、いや、もっとはっきりと過去と現
在を割り切っていられるのだと感謝でいっぱいです。
………とにかく今、愚生は 『今の一瞬間が現在の生命の最後である』 と、明日はおろか、一秒後の未来もないと思いつつ、なればこそ、この瞬間を何とか、この見えない眼でしっかりと確かめていたいと思って生きております……」
彼の残りの人生を最後をその瞬間まで光り輝いて生きてほしい。私はそう願っています。
<終>
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