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学生街の喫茶店(4) | 秘密のあっこちゃん調査ファイル:

これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
 井本貴恵さんの希望は、
「田中さんのはっきりした住所がわかるまで、私の名前は伏せておいてほしい」
 ということでした。調査の結果、彼女が言う〝昭和六十一年K大法学部卒の田中さん″は二十二名いました。その中で、奈良市から通っていた人は四名です。
 彼女の名前やシルクロードという店名を伏せて行う調査は、本人に直接確認を取ること
ができず、そこまでが限界でした。彼女はその四名でいいと言いました。一ケ月ほどして井本さんから再び連絡が入りました。
 どうやら四名とも人違いだったらしいのです。
「できたら、もう一度当たり直してほしいんです」
 今度はもう自分の名前も、シルクロードの名前も出してもらって構わないと言います。
 そういうことなら、調査はうんとやりやすくなります。
 彼女は「昭和六十一年K大法学部卒。奈良市出身」と、自信をもって言い切っていまし
たが、人間は往々にして記憶違いをしてしまうものです。
 私たちは卒業年度と住所の範囲を広げ、軒並み聞き込み調査に入りました。三十数件目
に当たった時、シルクロードを記憶している人にぶつかりました。
「貴恵ちゃんのことならよく覚えていますよ。あの子が引っ越したあと、みんなでどうし
てるんだろうって、よく話していました」
 彼の名前は田中秀仁。生駒市の出身でした。
 梅雨のじめじめした空気が、エアコンを「送風」にした部屋の中にも流れ込んでいた。午後から降りだした雨は、当分の間止みそうにない。
 その夜、貴恵は電話の前に立ち尽くしていた。
「初恋の人探します社」の話では、田中は自分のことをよく覚えていてくれたという。
「夜遅くなら帰宅しているので、十一時ごろに電話してもらって下さい」
 そうメッセージをもらったのだが、いざ電話をしようとするとやはりためらってしまう。
 田中はもう結婚していたらしい。予想はしていたのでさほどショックではなかったが、もし電話口に彼の奥さんが出てきたらと思うと、それが心配だった。こんなに夜遅く電話して、非常識だと思われるかもしれない。
 さんざん悩みまくった末に「えーい!」と勢いをつけてプッシュボタンを押した。
 受話器から聞こえてきたのは女性の声だった。やはり奥さんだ。
「夜分恐れ入ります。井本と申しますが、ご主人……」
貴恵が恐縮しきってそこまで言うと、彼の妻は明るい声で、
「はい、はい。ちょっとお待ち下さいね」
と、田中に電話をつないでくれた。彼はちゃんと奥さんに話してくれていたようだ。
すぐに田中が出た。
「よおー。元気だったか?」
「ええ。いろいろありましたけど。田中さんは?」
懐かしい声だ。あれから何年も経っているのに、すぐに彼の声だとわかる。
ひとしきり近況を報告しあうと、自然にシルクロードにたむろしていた当時の話になった。
「なあ、一度、みんなと一緒に集まらないか?」
「そうねぇ。それ、いいねぇ」
「こっちの連中は僕が連絡を取っておくから、貴恵ちゃん、ママたちの方頼むよ」
「ええ。久しぶりだから、みんな喜ぶと思うわ」
「南野たちも、びっくりすると思うよ」
〝シルクロードの同窓会″は、七月に入って最初の土曜日になった。
 場所に指定した難波駅近くのその居酒屋は、仕事の都合で遅れてきた人間が入ってくるたび「うわぁー、変わってへんなあ」とか「昔のまんまや」という歓声であふれた。
 シルクロードの姉妹とバイト仲間だった女の子、ヒゲさんグループからは名古屋に転勤していた津田以外の全員、全部で十三人が集まった。
 最初こそぎこちなかったが、乾杯が終わってめいめいが喋りだすとそんな空気もあっという間にほぐれてしまう。あちこちで昔話に花が咲いた。女性は貴恵も含めて四人とも独身だったが、男性陣はヒゲさん以外、全員が結婚しているということもわかった。

「男の人の方があせっているのかなあ」
 貴恵は変なことに感心しながら、全員の顔を一人ひとり確認するように見ていた。
 変わっていないとはいえ、さすがに社会人になって全員少々貫録がつきはじめた体型は隠しようがない。
「田中さんはやっばり昔のまんまだ」
 視線は自然と田中に向いてしまう。
 どぶねずみスタイルのサラリーマンスーツや、ヨレたポロシャツ姿の人たちにはさまって、生成りシルクシャツにジーンズという出で立ちの田中は、やはりスマートさを失っていなかった。少々出はじめたお腹も全然気にならない。
 貴恵は、あのころのあこがれとはまったく違う感情で田中を見ている自分に気がついていた。
 ふたりとももうすっかり大人になって、それぞれの人生を歩んでいる。最初こそ田中に会いたい一心で始めたことだったが、みんなの楽しそうな顔を見てそれもどうでもよくなった。シルクロードという喫茶店を通じて青春の時間を共有した仲間たちが、今ここに集まっている。それだけで十分ではないか………。
 居酒屋を出ても全員の興奮はおさまらなかった。二次会はスナックに立ち寄り、その日は夜更けまで盛り上がった。
 この「同窓会」は今や正月と盆の恒例行事になっている。
 当時まだ独り身だったヒゲさんは、この集まりで貴恵に紹介された女性とつきあうようになり、昨年めでたく結婚までこぎつけた。二人の披露宴が、またもや「同窓会」に変わってしまったことは言うまでもない。
「きえちゃんには、ほんま感謝してるんやで」
 会のきっかけを作った貴恵には、ヒゲさんはもちろん、みんなからことあるごとにこうした言葉がかけられる。
 田中への淡い思慕は露と消えてしまった。しかし代わりに一生ものの友情が今、彼女の手元にある。
 それが今、貴恵にとっては何にもかえがたい財産になっているのだ。
<終>

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