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夏の女(1) | 秘密のあっこちゃん調査ファイル:

これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
 夏子が指定した名古屋市北区のバス停は、昔、浩二が勤務していた派出所の近くだった。
 浩二は名古屋駅からタクシーを飛ばして、つい先ほど、このバス停に着いた。
「この辺も、ずいぶんと変わったなあ」
 彼はバス停のベンチに腰かけながら、感慨深げに辺りを見回した。
 ここは浩二の受け持ち管区外だったが、警察の独身寮から派出所までの通勤路であり、朝な夕なによく通ったものだ。
 しかし記憶にある古い軒並みは壊され、代わりに新しいビルが立ち並んでいる。道路も拡張されてきれいに舗装され、まっすぐに伸びている。何もかもが目新しい風景に変わり、まるで見知らぬ土地に来たかのような感覚だった。
「二十五年前とはえらい違いだ」
 五月の終わりの夕日が、目に赤くまぶしく射し込み、浩二は目を細めながらキョロキョロと首を左右に伸ばした。
 夏子はどっちから来るんだろう。
「何十年もお会いしていないのに、そんなに気づかって下さっていたなんて。涙が出るほどありがたいです。早くお会いしたいです」
「初恋の人探します社」 の話では、彼女はそう言ってとても喜んでいたという。
 何度も何度も「うれしい」と、繰り返し言っていたとも。
さっそく電話をすると、やはり彼女は浩二のことをとても懐かしがってくれた。
「娘さんたちは大きくなった?」
「そりゃあ、もう。あれから二十四年だもの。上の子なんか、のんきに構えてたら〝年ごろ″を突き抜けてしまって、本当、頭が痛いわ」
報告書には彼女が十年ほど前に離婚していることも書かれいた。夏子に男ができたことが原因らしい。しかし浩二はその話には触れずにいた。
「今度、昔のようにふたりで、犬山の菖蒲園だったか、チューリップ園だったかに行こう」
 夏子の提案に、
「じゃぁ、〝涙、涙の再会″はその時に」
と笑いながら言うと電話を切った。
それが今朝になって急に思い立ち、
「そんなことを言ってたら、いつのことになるかわからない」
昼すぎには大阪から上りの新幹線に飛び乗っていたのだ。
名古屋駅に着くとすぐに夏子に電話を入れた。
「えー!?今、名古屋駅に来てるの?」
突然の浩二の来訪に、あきらかに驚いている様子だったが、すぐにこの場所で待つようにと言ってくれた。ほどなく、赤い軽四が走ってくるのが見えた。
「元気だったあ?」
 車から降りながら、夏子が大きな声で言う。
「全然、変わってないねえ」
「姉さんはえらく太ったなあ」
 浩二は、八歳年上の夏子を当時から「姉さん」と呼んでいたのだ。
 五十歳はゆうに越えているはずの夏子は、しかしほとんどしわもなく、美人だった昔の面影を十分に残していた。が、太ったせいか、いやに顔が大きくなっていた。
 夏子は二十四年ぶりの浩二の第一声に気を悪くした様子もなく、
 「ハ、ハ、ハ」
 と大きく高笑いし、
「お酒でも飲みながら、話そ」
 と、浩二をバス停前の小さな居酒屋へ誘った。
 店は、さしてはやっているふうでもなく、店員が所在なさそうにふたりを見ていた。大瓶一本を空けるころには客がパラパラと入ってきて、やっと店員の注視にさらされることなく話ができた。
「若かったねえ。あのころは、ふたりとも」
 夏子は、浩二が注いだビールをキューッと飲み干し、しみじみと言った。
 言いたいことがきっとたくさんあるだろう。しかし恨みがましい言葉はとうとう一言も口にしなかった。探してくれてうれしい、夏子はただそればかりを繰り返していた。
 彼女が今誰と暮らしているのか。仕事は何をしているのか。
 浩二の方も知りたいことは山のようにあったが、結局何一つ聞けなかった。夏子は夏子で「私にもいろいろあってネ」と言ったきり、
「そんなことより飲も、飲も」
 とあっけらかんと浩二に酒をすすめてくる。
 気が滅入るような苦労話や、暗い愚痴は、彼女には不釣り合いだ。
「商売はもともとうまかったから、娘さんたちと一緒に何とか食べていけてるんだろう」
 そう思うことにした。
「熱燗、ダブルで!」
 夏子が厨房に向かって勢いよく注文した。
 彼女は昔から酒が好きだった。
 あのころは、ふたりで本当によく飲んだものだった。
 大きな交差点の角には広々とした公園があり、濃い緑が市民の目を潤おわせていた。
すぐ上に国鉄の高架が通っており、浩二が勤務する派出所は道をはさんだ駅の向かい側に立っている。駅の続きに商店街が並ぶアーケードがあり、一角には公設市場もあった。この派出所の管轄は、その駅を中心にした、名古屋市内でも「高級」といわれる静かな住宅地の一帯だ。
浩二は警察学校を出てからの半年間、別の交番に勤務していたのだが、再び学校に戻った後、この区域に派遣された。浩二が二十一歳の時だった。
機動隊も兼ねていたので、召集がかかれば直ちにその任務についたが、ふだんの仕事は担当区域の警らが主だった。
 そろそろ長袖の制服が暑く感じる五月も終わりのある日、浩二がいつものように警らを終えて派出所に戻ってくると、一人の女性が交番に来ていた。見た感じ三十歳前、といったところだ。
「免許の切り替えは……?」
 女性は自分の免許証を差し出しながら、同僚の辻に何やら質問をしている。
「免許の切り替えなら、交番なんかに来ないで、署の方に行かないと。何を聞きに来てんだよ、このおばちゃんは……」
 そう思いながら当の女性を見ると、浩二にも見覚えのある市場にある肉屋の奥さんだった。
 巡回連絡の時に一度話したこともある。前々から「肉屋の奥さんは美人」という評判を聞いていたので、楽しみにしていたのだ。
 浩二はもう一度、観察するようにじっくりと彼女の顔を見た。
色白で目はばっちりと大きく、唇がぽったりとして、あやういような魅力を持っている。いわゆる「男好き」のするタイプだ。
 それが夏子だった。
<続く>

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