このページの先頭です

太陽にみちびかれ(2) | 秘密のあっこちゃん調査ファイル:

これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
 一週間後、隆は真っ白い布に包まれた四角い箱の中に入って、より子の元に戻ってきた。
任務遂行中に起こった不測の事政だった。トラックがブレーキの故障で岩に激突し、助手席にいた隆だけが即死だったという。隆が除隊予定になる、わずか一ヶ月前の出来事だった。
 主計室の隆の机には、子供の名前をいくつか書き散らしたメモが残されていた。
告別式の日、軍服姿のままの僧侶たちの唱和がなされる中で、弔辞が途切れることなく続いていた。
「小幡中尉はその性、剛毅果断‥‥‥哀しいかな、かの英姿、今に見るよしなし‥…・」
より子は、ただ一点、白い花に囲まれた祭壇の隆の遺影だけを見つめていた。
じっと見ていると、自分の魂がその遺影に吸い込まれていくような気がする。
「できうるならば、そうなってほしい」
激しく願っていた。
祭壇に飾られた写真は、より子が隆と知り合って間もなく、隆にねだって町の写真屋で撮ってもらったものだ。より子が持っている隆の唯一の写真でもある。手にしたその写真を静かに抱きしめる。
涙が頬を伝うのをぬぐおうともしなかった。
隆さんに会いたい。私も隆さんの元へ行ってしまいたい。
それからのニケ月間というもの、より子はただひたすらそれだけを思っていた。
より子の意識はすでにこの世にはなかった。夢うつつの日々で、夜中にハッと目覚めると、青白い月明かりに浮かび出された隆の遺影が、永遠の沈黙のままでじっとより子を見つめていた。
もう幾度も流した涙が、再びあふれた。
 その年の彼岸の夜半、より子は男子を産んだ。死産だった。この世の空気を一度も吸うことなく、泣き声一つあげることもなかったこの男の子は、隆が書き残した「覚」と名づけられた。
 より子、二十二歳の秋のことだった。
 突如として、ソ連機が野戦基地に攻撃をしかけてきた。頭上にガーンという爆音がしたかと思うと、大鳥のような機影を森の上に落とし、
「ダダダダ、ダダダダ」
 と、辺り一帯に機銃掃射を繰り返した。
 より子は一緒にいた道子の腕をつかむなり、無我夢中で近くのやぶの中に逃げ込んだ。
 昭和二十年八月九日に始まった寝耳に水のようなソ連参戦は、満州に住む日本人の生活を大混乱に落とし入れた。より子たちコンシュン炭鉱で働く日本人も、例外ではない。
 前日までそれぞれの各課で事務を取っていた社員たちは、男子は在郷軍人としてそのまま関東軍の指揮下に入り、女子社員のうち身軽な者は女子軍属として篤志で従軍志願していった。そして、家族たちは一丸となって東満の中心都市、延吉へと避難を開始したのである。
 より子は躊躇なく従軍を志願した。お国のために死んでいった隆の遺志を受け継ぐつもりだった。この六日間、東満の国境の戦野で負傷者の介護、破甲爆雷の箱詰め、炊事係の手伝いなど、懸命に働いてきた。
 八月十五日のこの日、より子は勤務交替で、同僚の川島道子と共に宿舎に戻る途中だった。
 ソ連機の攻撃は、今日は二度目だ。関東軍の大砲の轟音が一発、山々にこだまし、続いて小銃の音が四、五発鳴り響いた。反撃はそれだけだった。
 ソ連機はそれらを完全に無視して何度も辺りを旋回し、やがて悠々と夕日の中を山あいに消えていった。
 より子と道子は青ざめたまま、しばらく口もきけずその場を動けないでいた。
「お前たち、大丈夫だったか?」
 突然、背後で野太い声がした。
 驚いて振り返ると、四十歳前後のずんぐりした体つきの男が立っていた。
 H新聞の特派員と名乗る男だった。
「お前ら、どこからの志願だ?」
 両手を腰に当てて上体を反らせ、横柄な口ぶりで聞いてくる。膨れたまぶたの奥の細い目が、より子たちを品定めするかのように動いた。「特派員」というには陰険すぎる感じの男だった。
 この男と初めて言葉を交わしたのは、この時だった。
 野戦基地には負傷者がぞくぞくと運ばれ、テントに入り切れない者が担架のまま外に置かれていた。立ったままの夕食が終わらないうちに、急な命令が出て、慌ただしく荷物をまとめさせられ、全員がトラックに乗せられた。
トラックはやっと一台が通れるような山道を数珠つなぎになって、ノロノロと登っていた。すでにあたり一面は真っ黒に塗り込められた闇の中、底の見えない左手の谷が不気味だった。
どれくらい走っただろうか。突然、前方が騒がしくなった。
「負けた!負けた!」
 兵隊達が怒鳴っていた。
「ちきしょう、負けたぁ。女もろとも谷に突っんでやるぞう」
女たちは悲鳴をあげ、先を争ってトラックから飛び降りようとした。
 その時、背後から大きな声がした。
「うろたえるな!げんし爆弾という強力なヤツが広島と長崎に落とされて、日本は負けたんだ!」
 「特派員」だった。
 その言葉を聞いた途端、女たちは一斉に声をあげて泣き出した。
 その夜、より子は隣にいる道子とも一言も言葉を交わさず、隆の遺影を抱きしめて、トラックの荷台の上でただじっとうずくまっていた。
 夜が明け始めたころ、トラックはやっと豆満江に到着した。
 源流を白頭山(中国名長白山)に発し、北朝鮮との国境沿いを東に流れ、日本海に注ぐ大河、豆満江(中国名図椚江)。
「これを越えれば、父達が待つ延吉にたどり着ける!」
より子の気持ちははやった。
朝がすみの中、橋の姿が次第に鮮明に見えてくると、全員に驚博の色が走った。橋は真ん中で二つに折れ、橋げたが流れに突っ込んでいた。橋はすでに関東軍の手によって爆破されてしまっていたのだ。より子たちは取り残されてしまった。
皆、ぼう然と岸辺に立ちつくした。
しかしすぐにソ連兵の目を恐れ、軍人も民間人も争って近くの山の中に逃げ込んでいった。
明け方の澄の中で、より子と道子は会社の仲間たちとはぐれてしまった。トラックを降りた時から、もう軍の庇護はなかった。いつ、ソ連兵に見つかるかもしれない。二人は夢中で山の中に分け入った。
より子は、あまり体の丈夫でない道子を休ませるために、山すその木陰に身を潜ませた。
「女二人で、こらからどうしよう」
途方にくれる思いで辺りを見渡した時、トントンと肩をつつかれた。
 ギョッとして振り返ると、例の「特派員」が背後に足音も立てず、ぬ一つと突っ立っていた。
「お前たち、二人だけか?」
 より子がうなずくと、二人の横に座り込んで言った。
「いいか、俺の言うことをよーく聞け。ソ連兵はもうこの辺りまで来ている。ヤツらの目を盗んで、女二人がこの河を渡るのは無理だ。それに、そんな格好でうろついていれば、日本人だとすぐわかってしまう。
 そこでだ。誰にも怪しまれないように現地人に変装する。その上で、俺が周囲の状況を、二、三日じっくり調べる。それから渡河するんだ。どうだ、俺に任せるか?」
 より子と道子は顔を見合わせた。
 うさん臭く、図々しいこの男のことは、最初から虫が好かなかった。しかしこの状況ではほかに頼れる人もない。自分たちだけではこの先どうしていいかもわからなかった。
 より子はこっくりうなずいた。
「お前もそれでいいな?」
 男は強引にことを進めるかのように、道子に向って念を押した。道子も黙ってうなずく。
「そうと決まれば、まず、持っている物を全部出せ!」
 男は、急に元気づいて言った。
 男は二人がリュックから取り出したわずかばかりの食糧と、終戦の日の夜に軍から支給された札束を取り込みながら、
「これから、食糧は俺が分配する」
 と宣言した。
「ほかに持っている物はないか?」
 より子と道子は自分たちのリュックの中身を全部出した。
「何だ! それは!」
 男は隆の遺影を目ざとく見つけると、より子の手から写真をひったくろうとした。
「婚約者だった人です」
「こんなもの持っていると、いざという時、言い訳できないぞ!」
 その写真は、より子にただ一枚残された写真だった。男の子を死産した今となっては、それは唯一の隆の形見であり、隆そのものだった。何よりも大切にしてきた。死ぬ時は一緒のつもりで、従軍した時から肌身離さず持っていたのだ。
 言い訳できなくなるということよりも、隆の遺影が後々何かで汚されるのを恐れ、より子は黙って男の前でその写真を引き裂いた。
 隆とのきらめくような二年間の記憶が鮮やかによみがえってきた。
(隆さんは、私の胸の中で永遠に生きている)
 より子は隆の魂をとむらいながら、細かくちぎった隆の遺影を露を含んだ夏草の上に静かに振りまいた。
男はその時を待っていたかのように立ち上がり、いきなり泥のついた軍靴で乱暴に写真の賢を草の中へ踏みしだいた。
 -陸さんの遺影を足蹴にした!
より子は体中の血が逆流するのを覚えた。怒りで体全体が震えだした。
「何するんですかっ!無礼な!」
「何いっ!無礼だと!?」
男はより子をにらみつけた。しかしより子の迫力に気押されてか、それ以上は何も言ってこなかった。
<続>

Please leave a comment.

入力エリアすべてが必須項目です。メールアドレスが公開されることはありません。

内容をご確認の上、送信してください。