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日本を離れる前に(1) | 秘密のあっ子ちゃん(25)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
その日、電話をかけてきた女性は、たずね人の調査を依頼した場合どれくらいの期間で判明するのかということをしきりに聞いてきました。
「ケースバイケースですので、一概にどれくらいの期間で判明するかということになりますと、調査に入る前からは申し上げられないのですが」
私がそう答えると、彼女は、「実は、二週間後に日本を離れるので、それまでに探してほしんです」と言ったのです。
彼女は四十二才。インテリアデザイナーで、建築士の資格も持っていました。これまで一緒になってもいいと思った人がいなかった訳ではありませんが、仕事に夢中になっているうちに結婚しないできました。
今回、彼女は恩師の勧めもあって、建築分野の知識を深めるために、ヨーロッパへ二年間留学することになっていたのでした。
最近、彼女はよく夢に見る人がいると言います。一度目は「ああ懐かしい人の夢を見た」で済んだのですが、三度四度と重なるうちに、今どうしているのかが無性に気になり、日本を立つ前にどうしても会いたくなったのでした。
今回の依頼人(42才、女性)が日本を離れる前に是非会いたいという人は、学生時代の恋人でした。
彼女は東京の有名私立大学に通い、剣道部に所属していました。
高校生時分から剣道に憧がれていました。「小手」や「面」で相手を打った時、一瞬全てが静止するような、あの緊張感が好きでした。 しかし、厳格な父は「女が竹刀を振り回して、嫁に行けるか!」と、決して剣道部に入ることを許してくれませんでした。
親元を離れて東京の大学へ入った彼女は、今度こそ剣道ができると喜び勇んで入部したのでした。
初めて部に顔を出したその日から、他の新入部員三名と共に、キャプテンが基礎から丁寧に教えてくれました。
素振りをするにも、「腕を絞れ!」とキャプテンの檄が飛びます。竹刀がフラフラして、なかなかうまくいきません。何十回、何百回と振っているうちに、腕も上がらなくなります。あるいは、摺り足の練習の時には、「なんか君の摺り足を見ていると、踊ってるみたいだな」と言われたりもします。
それでも、彼女は喜々として部に通っていました。 踊っているように見える「摺り足」でも、根気よく指導してくれているキャプテン。彼女は、剣道部に入部して三日も経たないうちに、そのキャプテンがとても遠慮している人がいることに気づきました。
その人は学生にしては少し老けて見えるのですが、コーチとか講師にしては若すぎます。
すぐに、彼は一年留年している五回生で、前の主将だったということが分りました。剣道の腕はかなりのもので、様々な記録を持っているということも聞きました。
日が経つにつれて、初めて見た時の無口でとっつきにくい印象は、次第に彼の男らしさと彼女の目に映っていくようになりました。 彼女が彼に憧れの想いをい抱くのには時間がかかりませんでした。練習のあと、部員みんなで喫茶店へ繰り出し、そこで雑談するのが一日の一番の楽しみとなっていきました。彼女は彼の存在を身近で感じ、彼の声を耳にすることだけで幸せでした。
ところが、連休を利用して東京へやってきた両親に、竹刀や胴着を見つけられてしまったのです。父は激怒しました。
「あれほど言ってあったのに、竹刀を振り回すために大学へやったんではない!すぐさま剣道など辞めなければ家に連れ帰る!」と言い出したのでした。
女が竹刀など振り回していれば嫁のもらい手がないというのが父の口癖でした。 二十四、五年前のこととはいえ、彼女の父親はかなり古風な考え方の人でした。しかも、子は親に従うものと頭から決めてかかっているのです。親元から離れているのをいいことに父の厳命に従わず、内緒で剣道を続けていたということが分れば、彼女は勘当同然になるということくらい、父との十八年のつきあいで嫌というほど思い知っていました。
彼女は泣く泣く剣道部に退部届けを出しに行ったのです。キャプテンは突然の彼女の退部の申し出に驚き、懸命に慰留してくれました。しかし、いくら引き留めてもらっても留まる訳にはいきません。
チラッと彼の様子を伺いました。彼は彼女とキャプテンの話が聞こえているはずなのに、素知らぬ顔をして素振りをしていました。 剣道部道場から出た彼女は、急に涙が溢れ出ました。もうこれで彼との繋ながりがなくなったのだと思うと、どうしても涙を止めることができませんでした。その日、彼女は同級生に出会わないように、裏道をすり抜けて校門を走って出たのでした。
それから半年、部活を退めた彼女は夕刻からの空いた時間を埋めるために、アルバイトに勤しみました。あれから彼とは顔を合わすことはありませんでした。剣道部へ行かない限り、広い学内で、多くの学生の中から彼の姿を見つけることは不可能でした。とは言っても、彼の姿を見るために部室へ行くなどという勇気は、彼女にはありませんでした。
「私の片想いに決まっているのだから、どうなるものでもない」彼女は、ほとんど諦めかけていました。
秋の学園祭も終り、季節は冬に入ろうとしたころ、彼女は一通の手紙を受け取りました。差し出し人は彼でした。彼女は驚き、封を切る手ももどかしく、急いで手紙を開けました。
それは彼からのラブレターでした。
彼女は我が目を疑いました。まさか、彼が自分のことを想ってくれていたなどとは信じられない思いでした。
あれから二十四年。その手紙に何と書いてあったのか、彼女は今となってはよく覚えていませんが、一行だけ鮮明に記憶に残っている部分があります。
<続く>

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