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六十年目の夏、もう一度会いたい – 秘密のあっ子ちゃん(24)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
 あれから60年近くが経とうとしている今でも、彼女(84才)は彼が戦地から引き揚げてきた時に再会を拒否したことが、唯一つの心残りとなっていました。 もうこの年になれば、嫁ついでいたからと言っても、苛酷な戦場で生き抜き、真っ先に会いに来てくれた最愛の人に、何故飛んで行って会わなかったのだろうかと我ながら不思議にさえ思われます。“若さ”ゆえの頑なまでの潔癖さでした。 彼女は、今、あの時一目だけでも会って、戦地での苦労の労いを言わなかったことを悔いていました。そして、生きているとは思ってもみなかったこととはいえ、帰還を待ちきれずに嫁ついでいった自分の許しを請わず、60年もの年月を経てしまったことが消しようもない心のしこりとなっていました。
 「元気で暮らしているんだろうかとかどんな風に生きているだろうかとか、ずっとあの人のことを想ってきました。自分の身に何かある度に、いつも彼が守ってくれると思っていました。一度でいいですから、死ぬ前にせめてもう一度会いたいのです。そうでないと、私は自分の心の整理を一生しきれないのではないかと思うんです」
 依頼時に、彼女はそう言っていました。
 彼女(84才)が彼のことについて正確に覚えていることと言えば、山梨県出身ということと勤務先だった商社の名前だけでした。手がかりはそれだけでした。軍籍の方は手紙を一度出しただけだったので、所属部隊がうろ覚えだったのです。 戦前に二人が勤務していた商社は、社名を少し変えてはいたものの現存していました。しかし、なにぶん60年以上も前のこと、人事課でも総務課でもそんな昔の書類は残っていません。 担当の人は大変親切な人で、かなりの時間を割いて記録が残っていないかと調べてくれたのですが、結果は思わしくありませんでした。
 「お役に立てずすみません」
 何度も足を運んでいた我がスタッフに対して、係の人は却って恐縮さえしてくれたのでした。
 これではいたしかたありません。例の如く、「山梨県全域の彼と同姓のお宅を一軒一軒当たっていくしか手はないな 」と考えていた私でした。しかし、うろ覚えの部隊名であっても、念のために軍を当たってみることにしました。また山梨県の役所関係をも当たってみることにしたのでした。

 調査の結果、やはりと言うべきか、旧陸軍には彼女が私達に伝えた部隊名はありませんでした。
 やむなく、山梨県全域の彼と同じ苗字の家庭を一軒一軒当たっていく膨大な作業に取りかかろうとした時、山梨の役所から一本の電話が入りました。

 「先日おっしゃっていた部隊はこちらの方にはありませんでしたが、お尋ねの方のお名前に聞き覚えがあったので、ちょっと気になって、ひょっとしたらと思いまして連絡を差し上たのですが…あなたのおっしゃる方が私の知っている人とどうも同一人物のような気がするんです」
連絡をくれたのは、尋ねに行った時、親切に対応してくれた課長でした。
 「いやね、その人は市の助役や教育長などを歴任された方で、それでお話を聞いた時、どこかで聞いた名前だなと思ってたんですよ」課長はそう説明してくれました。
ところが、課長はその人が出征前にどこで勤務していたかとか、いつ除隊したかなどという、古い話は知りませんでした。
 「私が新任の時に、既に役場におられましたから…」そう、すまなそうに言います。
 逆に、私達は彼の戦後の人生については知りようもありません。課長が言う人と彼が同一人物であると確認する方法は、唯一つ、直接本人に聞くしかありませんでした。 
 「それで、その方は、今どちらに?」私は尋ねました。 
 「それが、二十年程前に失くなっているんです」
 「エッ?!失くなっておられるんですか…?」
 「ええ、立派な方でしたが、惜しいことに癌で失くなられました」
 「そうですか…。それでは、どなたかお身内の方はいらっしゃいませんか?」 「確か奥さんももう失くなられたと聞きました。お子さんもいらっしゃいませんでしたし…。そうそう、弟さんはご健在ですよ」  三日後、課長は東京に住む弟さんの住所を調べて、再び連絡を入れてくれました。
 私達は、早速、弟さんに連絡を入れたのです。弟さんの話では、失くなったお兄さんというのは、戦前、確かにその商社に勤務しており、昭和十六年に出征し、各地を転戦して最後にはシンガポールで捕虜となって、昭和二十四年に引き揚げてきたと言うのです。 
 依頼人が探していた人と間違いありません。
 役所の課長が言うように、彼は戦後、地元で教育委員長や役場の助役を歴任し、昭和58年の秋、胃癌のため67才の若さで失くなっていました。
 「そうですか。兄にも若いころ、そんな人がいたのですか…」
 弟さんは彼の戒名と葬むられている菩提寺を私達に教えてくれたのでした。
 私は、彼は既に昭和58年に死亡していたことと彼の戒名や菩提寺を報告書にまとめて、依頼人(84才)に郵送しました。
 五日後、彼女から一通の手紙が届きました。
 「探しにくいお願いでございましたのに、最後まで調査していただき有難とうございました。
 思いもよらぬ悲報でしたが、報告書に心のこもったお手紙まで添えていただき感謝しております。
 今はまだ、只々忙然としておりますが、気持ちが落ちつけば、お寺の方へお参りさせていただきたいと思っております。
 戦争へと押し流されていった中での出会い。それが、60年経った今、こんな形で終わったのは本当に残念な思いでございます。『ああ、お互いに年を取ったね』という言葉まで用意しておりましたものを…
 調査していただいた方には厚くお礼を申し上げていたと、くれぐれもよろしくお伝え下さい」手紙にはそう書かれていました。
 「今一度会わなければ、一生心の整理がつかない」と言っていた彼女。彼が既に死亡していた今となって、果して彼女は彼女自身の戦後を終えることができるのだろうかと、私は人と人との出会いの儚なさを思わずにはいられませんでした。
<終>

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