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日本を離れる前に(2) | 秘密のあっ子ちゃん(26)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
「…気品を備えていて、それでいてしたたかさを持った君を…」そういう言葉でした。
「したたか」と言われて、十八才の彼女は自分がどう評価されているのかがよく分りませんでした。そのために、未だにその言葉を忘れられないでいたのでした。 それでも彼女は、三日後、指定された時間に彼が待つ部室へ向かったのはもちろんのことでした。
剣道部の部室は新しいプレハブの部室が立ち並ぶ一番手前の古い木造の一室でした。男子部員の多いクラブらしく、内部は乱雑に竹刀や胴着が置かれ、戦前からあるというその部室は三畳ほどの畳が敷かれていました。畳の上にも物が雑然と置かれ、冬になるとその真ん中に部員達は電気ごたつを置いていました。ですから、四人座ればもう足の踏み場もないという状態でした。
彼女が恐る恐るドアをノックすると、中から彼の声がしました。
ドアを開けると、彼一人がこたつを前にして座り、難しそうなぶ厚い本を読んでいました。五回生で、ほとんど授業のない彼は、こうして日中の時間を過ごしていたのです。
ドアの前に突っ立っている彼女を見て、彼は「まぁ、とにかく座れば?」と言いました。
彼女は彼の顔を見た途端、カチカチになっていました。 別に内気でおとなしい訳でもないのに、むしろ明るく可愛い気のあるその性格で、高校時代は何人ものボーイフレンドができたし、気軽にも諜べれていたにも拘わらず、その時の彼女は全くの硬直状態でした。十八才の彼女は、二十三才の彼が随分と大人に見えたのです。そして、一体何を話していいのかということさえ分らなかったのです。
片想いだと思い込んでいた四年先輩の彼からラブレターをもらったのは、彼女が大学一回生の冬になろうとしていたころです。
半信半疑で、指定された日に剣道部の部室に向いました。彼に促されて、狭い部室の畳の上に置いてある電気ごたつの前に座ることには座ったのですが、彼女は何も話せずにいました。 別に内気であるために男性と喋れないというのではありません。高校時代は結構もてたし、何人かのボーイフレンドともつきあってきました。
しかし、彼の前では自分が別人になったように、言葉を発することさえできなかったのです。
剣道の指導は主にキャプテンがやってくれていて、彼は一人黙々と自分の練習をしていました。彼が彼女に直接話しかけるなどということはありませんでした。しかも彼は無口で、彼女はほとんど言葉を交したことがなかったのです。そもそも入部した時からキャプテンや四回生、三回生の先輩達から「すごい人だ」と聞かされてきました。そうしたことが、彼女にとって彼は「近よりがたい存在」、「ただ憧れの目で見ている存在」としか思えませんでした。だから、ラブレターをもらっても、すぐには納得できなかったのです。  その時、彼女はガチガチに緊張していました。
彼は彼女が一言も言葉を発しないので、話題を探すように、今読んでいるぶ厚い本の話を始めました。それはカントかヘーゲルの哲学書で、彼女にはその内容が難しくてよく分りませんでした。高校の社会科の論理の授業で少しは習っていましたし、彼の言葉を一言も聞き漏らさないように耳を凝らしているのですが、彼の話す哲学の難しい話題を理解できないことが、ますます彼が自分とは別の次元の人だと思えてくるのです。
ふと気づくと、彼は本の話はとっくにやめていて、彼女に出した手紙のことを話していました。そして、「つきあってほしい」というようなことを彼女に語りかけていたのです。
彼女は相変らず言葉が口から出てきませんでした。 彼が「構わないかい?」と彼女の返事を促します。彼女はこっくりと頷づくのがやっとでした。
そのうち、彼はこたつの上に置いてあったりんごを取って、小さなナイフでそれを剥き始めました。少し剥いてから、急に気づいたように、「あぁ、こういうことは君にやってもらった方がきれいに剥けるね」と言いながら、剥きかけのりんごとナイフを彼女の前に差し出しました。
彼にりんごを剥いてくれと言われて、彼女はとても慌ててしまいました。
彼女はこれまで料理をしたことがないのです。母は彼女に掃除や洗濯をよくさせていましたが、包丁だけは持たせなかったのです。それは、父が味にうるさいということも原因していました。今、親元を離れているとは言っても、両親の知人の家で下宿していて、食事は下宿先のおばさんが全て作ってくれていました。 「いえ、私、へたですから…」
彼女は初めて口を開きました。
「それでも、僕が剥くよりましでしょう」
彼女はやむなくりんごを受け取って、懸命に剥き始めました。
その様子を少し見ていた彼は、「やっぱり、僕がした方がいいみたいだね。これじゃあ、僕以上に現代彫刻だ」そう笑いながら言うと、彼女からりんごを受け取って再び剥き始めました。 彼女は奈落の底に突き落された気分になっていました。「りんご一つも剥けないなんて…。彼はきっと私に失望して、気持ちも冷めたのではないだろうか?」そう思っていました。

憧れの先輩からラブレターをもらい、初めて部室に赴いた日、彼の前でいいところを見せなければならない時に、あろうことか彼女はりんごひとつ満足に剥くことができず、自己嫌悪に陥っていました。それでも彼は、その後何回も彼女をデートに誘い出しました。 しかし、彼女は相変わらず彼の前ではいつもの自分らしく振る舞うことができませんでした。映画を観に行っても、公園を散歩していても、やはり喋ることはできません。彼の話をじっと聞きながら、いつもただおし黙っているだけでした。 彼は六人兄弟の末っ子で、両親を中学・高校時代に相次いで亡くしていました。長姉が母代わりとして彼の面倒を見、彼自身もまたこの長姉を信頼し、慕っていました。話の中から、彼の家庭環境のそんなことも分ってきました。
ある寒い日、彼女は寺社巡りの好きな彼に誘われて有名なお寺の拝観に行きました。寺を出るころになって、彼が突然「姉さんに会ってくれないか?」と切り出してきました。
彼の吐く息の白さが今も鮮明に脳裏に残っています。その言葉を聞いて、彼女はまたもやびっくりしました。と同時に、彼の意図を図り兼ねていました。
まだつきあって間もないのに、何故「母」と慕うお姉さんに会わせたがるのだろう?この前、結婚相手が決まれば、真っ先にお姉さんに紹介することになっていると言っていた…。ということは、私を結婚相手と見ているのだろうか?
彼女はそうした疑問すら聞くこともできず、ただ一人で思いを巡らしていました。
「年が明けたら、早々に時間を作ってくれないか?その時、姉を紹介するから」その日、駅での別れ際、彼はそう言って帰っていきました。
それから彼女はずっと憂鬱でした。彼に結婚相手と見られていることが不愉快だというのではないのです。勿論、十九才になったばかりの彼女が「結婚」を実感持って考えられなかったのは当然です。が、それ以上に彼が本当に自分を愛してくれているのだろうかということが、最初からずっと信じられないでいたのです。いえ、もっと言うならば、彼の前でいつもの自分でいれない自身へのいらだちだったのかもしれません。
クリスマス・イブの日、剣道部ではコンパが催されることになりました。退部した彼女でしたが、同級生の女子部員やキャプテンの誘いもあって、彼女もそのコンパに参加しました。盛りに盛り上ったコンパも終り、彼が駅まで送ってくれることになりました。
いつものように黙って彼の後を尾くように歩いていた彼女に、彼が突然振り向いて言いました。
「君はどうして僕といる時はそんなに喋べらないの?僕のことが嫌いなのかい?」    「いえ…」
蚊の鳴くような声でした。 「じゃあ、どうして?」 「…。」
彼女はまた黙りこんでしまいました。
その時、突然、彼は彼女を抱きしめたのです。
剣道部のコンパで、あまり飲みつけない酒を勧められ、彼女は酔っていました。 ですから、彼に突然抱きしめられ時は何が起こったのかが分りませんでした。彼の顔が近づき、その唇が彼女の唇に触れた時にやっと事態が飲みこめたのでした。
彼女は咄嗟に彼を押しのけ、次の瞬間には泣き出してしまいました。
四十二才になった今では、自らのことであるにも関わらず、あの時の若さ故の潔癖が理解しがたいものとなっています。
「私は何故あの時泣き出してしまったんだろう?ファースト・キスでもなかったのに…」
それは、今ではきっと彼とのつきあいの初めから素直に自分の気持ちを表現できなかったちぐはぐさから来ることなのだと思っています。
あの日以来、二人の間は遠のいていました。
私達が彼女に彼の所在の調査結果を報告できたのは、彼女が日本を発つ三日前のことでした。
その三日間で、彼と再会し、二十三年前とは違って自分らしい態度で彼と会話を楽しんだかどうかは、彼女が既にヨーロッパへ行ってしまった今となっては確認しようもないことなのです。
<終>

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