これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
彼女は東京在住の三十四才の女性です。既に結婚し、現在は官庁に勤めています。大学は一浪して、慶応大学を卒業しました。
彼女の気がかりというのは、その学生持代に起こった出来事にありました。
彼女は浪人中、ある大きな予備校に通っていました。そこで同じく一浪して、早稲田大学政経学部を目指している男性と知り合いました。
予備校に通い出してしばらくしたある日、彼女は風邪を引き授業を休みました。その頃は予備校での友達がまだできていなかった時期で、休んだ授業のノートを誰に見せてもらおうかと困っていました。その時、隣の席に座っていた彼が昨日のノートを差し出してくれたのでした。
それからは、彼女は彼とちょくちょく話をするようになりました。彼は彼女が分らない問題の考え方を教えてくれたり、模擬テストの設問傾向なども話してくれたりしました。
そのうち二人は予備校の帰りに喫茶店に寄ったり、本屋に一緒に行くようになりました。
夏休みも済んで、秋と言ってもまだまだ暑いある日、彼は彼女に交際を申し込みました。
彼に交際を申し込まれた依頼人は、その途端に彼が鬱陶しく思えてきました。別に彼の申し込み方が悪かった訳ではありません。彼はごく普通に、「よかったら、つきあってくれないか?」と言っただけです。また、彼はそれなりの身長もあり、顔立ちも悪くなく、容姿から言っても他の男性に引けを取るものでもありませんでした。
それに彼の優しさや親切は、知りあった当初から変わりありません。案外、彼のその優しさが負担になったのかも知れませんが、彼女は何故急に彼の存在が鬱陶しく思うようになったのか、その理由を自分でもうまく説明できませんでした。 彼女は彼につらく当たるようになりました。随分嫌味な言葉も吐きました。「そこまでするか」という程の態度も取ってしまいました。
それに対して、彼は黙っていました。かなり不愉快な思いをしただろうに、言い返したり、怒ったりはしませんでした。
入試の日がやってきて、二人はそれぞれの志望校、早稲田と慶応に無事合格しました。
予備校の最後の日、彼は「卒業したら、連絡をする」と彼女に言いました。それが彼との最後の会話でした。
大学が別々となって、予備校最後の日、彼は「大学を卒業したら、また連絡するよ」と言って去っていきました。
大学在学中、彼女は彼のことを思い出すこともありませんでした。入学当初は志望校だった慶応に入れた嬉しさ一杯でしたし、学生生活に慣れていくと新しい友人もでき、サークル活動も楽しいものでした。それに、それなりの勉強もしましたし、小遣い稼ぎのためのバイトも結構おもしろいものでした。
ですから、卒業した後も彼から連絡が入らなかったことなど気にも止めていませんでした。
しかし、社会人になって五、六年経ったころ、少しは世間の荒波も分り出すと彼のことが気になり始めました。会いたいということではなく、自分が示した対応が如何に彼を傷つけたのかが分るようになったからです。
「交際を申し込まれた途端、あんな嫌味な言葉を投げつけ、心をえぐるような態度を取った。なのに、彼はずっと耐えていてくれた。私は何てひどいことをしたのだろう。もう一度会って、心から詫びたい」
大人になった彼女は、そう思うようになったのでした。
<続く>
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