これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
夫が出征してしまうと、夫の養母である若い姑は依頼人にますますつらく当たりました。それだけではなく、生まれたばかりの長男の世話の一切を自らがして、彼女の手から取り上げてしまったのでした。耐えに耐えていた彼女も、実家の勧めもあり、ついに息子を連れて婚家を出ました。
実家へ戻って彼女は嫁ついで初めて、のびのびと眠ることができました。出征していった夫が帰国した時のことを考えると気がかりはありましたが、母も弟も息子を可愛がってくれ、申し分はありませんでした。 ところが三週間経ったころ、姑と親戚筋の男達が四、五人、突然乗り込んできて、あっと言う間に息子を連れ去ってしまったのです。
彼女は何度も婚家に出向き、息子を返してくれるように頼みました。その度に姑からは口汚く罵られ、「あんたが出ていくのは勝手だすけど、あの子はウチの跡継ぎだす。渡す訳にはいきまへん」の一点張りの言葉に、我が子の顔すら見ることもできず、引き返さなければならない日が続きました。
そうこうしているうちに母も弟も相次いで病いに倒れてしまいました。食糧事情の悪さがっ祟ってのことでしたが、今度は彼女が一家を支えるために働きに出なくてはならなくなりました。
終戦後のドサクサの中では女手一つで二人の病人の面倒を見るためには、息子のことは気になりつつも、到底迎えにいける状況ではありませんでした。それでも彼女は、同じ年ごろの男の子を見る度に我が子を思い出し、ただ一枚持って出たお宮参りの時の息子の写真を見ては涙にくれていました。
やがて弟は死亡し、年老いた母との二人の生活になりました。世の中も少し落ち着いた頃、彼女は婚家を訪ねました。しかし、姑の厳しい言葉で門前払いにされ、息子の顔すら見ることができませんでした。夫は復員後、姑がお気に入りの遠縁の娘さんを新しく妻に迎えていました。
彼女は結局、婚家へ連れ去られて以来、一度も我が子を抱くことも、その顔すら見ることができなかったのです。
それから五十年が経ちました。彼女は長い間独り身で通しました。人生の半ばを過ぎて良き伴侶に巡り合うことができましたが、彼女は片時も息子のことを忘れたことはありませんでした。
乳飲み子の時に引き裂かれた我が子の面影を抱きしめ、その安否と成長を夢に見つつ、誰にも言えない苦悩を自分一人の胸に秘めながら、依頼人(70才)は五十年の歳月を過ごしました。彼女にとってつらいのは、腹を痛めた我が子の姿を見ることができないということもさることながら、他目には何不自由のない悠々自適の生活を送っていると思われているのに、そうした苦悩を誰にも相談できないということでした。
これまでの想いが昂じたのでしょう。彼女は私達に事情を話ながら、涙を止めることができなかったのです。
<続>
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