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神戸の「おばちゃま」と震災(1) | 秘密のあっ子ちゃん(79)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 現在五十一才の依頼人は、幼い頃、母によく連れられて神戸の親類の家に遊びに出かけていました。その親戚宅というのは、妻の方が母の従姉妹に当たり、二人は小さい頃から姉妹のように仲が良かったこともあり、お互いに嫁いだ後も行き来していたのでした。
 その家は神戸港が見渡せる高台にありました。それは白い壁の洒落た洋館風の建物で、幼い彼女には憧れの家でした。
 家の中央には、彼女の自宅にはない洋風の応接間があり、そこに座っているとまるで自分がお姫様になったような気がしました。それに、自分より少し年下の二人の息子達には、それぞれの子供部屋が与えられ、机の横には当時まだ珍しかったベッドが置かれていたのです。彼女はこの二人のハトコを羨ましくさえ思ったものです。それだけではなく、庭に置かれた白いブランコを漕いでいると、眼下に広がる瀬戸内海が遠くなったり近くなったりするのです。このブランコが彼女の一番のお気に入りでした。彼女は何度、「この家の子だったらよかったのに」と思ったことかしれません。おばちゃま夫婦(彼女はいつも、この母の従姉妹のことを「おばちゃま」と呼んでいたのですが)も、とても優しい人達でした。
おばちゃまは、よく手作りのケーキを作ってくれたものです。昭和三十年代前半だった当時、家庭で手作りのケーキを作るなど、彼女にとってはテレビで見たアメリカの家のようで、おばちゃまは何ともモダンな人に見えました。あまり果物が好きでなかった彼女に、おやつと言えばいつもトマトやスイカを出す母とは大違いだと思いました。それにおばちゃまはチョコレートも一杯くれました。それを母は「あんまり食べたら虫歯になるから、少しにしておきなさい」と言うのでした。そんな時、おばちゃまはいつもニコニコ笑って、「じゃあ、もう少し後にとっておきましょうネ」と言ったものです。おじちゃまも彼女にとってはびっくりするくらい優しい人でした。父は典型的な亭主関白で、よく母に怒鳴っていましたが、おじちゃまの怒鳴り声は聞いたことがありませんでした。それに、子供達と一緒によく遊んでくれたのです。
 ところが、その頃に優しかった母が急死してしまいました。四十二才という若さでした。家事一切は8つ年上の一番上の姉が全部やってくれましたので、彼女の生活に不自由はありませんでしたが、大好きだった母がいなくなったことはまだ幼い彼女にとってこの上もなく淋しいものでした。
 母と従姉妹だったおばちゃまの家には、母の死亡と同時に足が遠のいていきました。亭主関白で何につけても純日本風な父は、近代的でモダンなおばちゃま夫婦とはあまり反りが合わなかったようです。彼女は一度だけ父にねだっておばちゃまの家へ連れていってもらいましたが、その時の父は借りてきた猫のようで、所在なさそうにしていたものです。父も母が亡くなってからというものはすっかりおとなしくなってしまって、彼女の目からも急に老け込んでいく父が可哀想で、あまり自分の我が儘ばかり言っていてはいけないと思えました。それでも、たまには姉がおばちゃまの家へ連れていってくれました。しかし、それも姉が嫁ぐと途絶えてしまったのでした。

<続>

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