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彼は本人?別人?(1) | 秘密のあっ子ちゃん(89)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

その依頼人は自分の気になる人の所在を探すのに、以前にも関西の探偵社に人探しの調査を頼んでたことがあるということでした。
彼女は現在三十二才の独身OLです。
それは八年前の暮れのこと、会社の忘年会の流れで同僚達とパブに行った時の出来事でした。
店内は忘年会の二次会やサークルの打ち上げで盛り上がっているサラリーマンやOL、学生達で混み合い、喧噪のようでした。
彼女は一次会で上司に随分勧められ、結構酔っていました。トイレに立った時、狭い通路で人とすれ違いざまによろけ、その瞬間、横に座っていた男性の肩を思い切り押してしまいました。その人は今まさに口に運ぼうとしていたグラスのウイスキーをこぼし、ズボンがびしょ濡れになってしまったのです。それが彼でした。 彼女は謝りながら、慌てて彼のズボンをハンカチで拭き始めます。回りで彼の同僚達がはやし始めます。それが彼女にはより一層恥ずかしく、彼により一層申し訳なく思えました。
「すみません。あの、クリーニング代を…」
彼女はそう申し出ましたが、彼は「いや、大丈夫ですから」と遠慮しました。彼女は相変わらずハンカチで彼のズボンを必死で拭いていました。
「おい、横田!いつまで拭いてもらってんねん」
彼の同僚達のはやし立てる声で、彼女は彼の名前が「横田」であることが分りました。
「もう大丈夫ですから」
彼は再びそう言いました。それで、彼女はやっと彼のズボンから手を離しました。 「本当にすみません」
もう一度彼女は謝って、トイレに向いました。
「私、酔ってるわ。覚まさなきゃ」
しばらく涼んでトイレから出ると、彼達のグループはもう店を出ていました。店員が彼らのテーブルを片づけているのを見て、彼女は少し挙をつかれた思いでした。というのも、トイレで「やはり連絡先ぐらいは聞いておかなくちゃ」と考えて戻ってきたのですから。もちろん、そうしようと思ったのは彼が感じのいい青年だったからでもあります。
「いやん、あの場で聞いておけばよかった」と思ってもあとの祭り。苗字だけは知り得たものの、彼はどこの誰かは分らずじまいになってしまったのでした。もう彼らの姿はどこにもありません。
やむなく、彼女は自分の席に戻りましたが、それからは同僚達の騒ぎにもあまり乗り切れませんでした。
年が明け、春が来ても、彼女は時々彼のことを思い出しました。
「どうにかして彼の連絡先が分る方法はないかしら?」
その頃になると、彼女はそんなことばかりを考えるようになりました。
思い余った彼女はタウンページを調べて、ある興信所に連絡をしたと言います。 「これくらいの材料でも探すことはできるんでしょうか?」
彼女はそう不安気にそう聞きました。
「大丈夫ですよ」
その業者の担当の人はきっぱりと答えてくれたとのことでした。それで、彼女は安心して彼の調査を依頼しました。
ほどなく、業者から判明したとの連絡が入り、彼女は報告書を受け取りました。 ちょっとドキドキしましたが、彼女は心を浮き立たせて彼の家へ連絡を入れました。対応に出たのはお父さんです。
ところが、「そんなもん、おらん!」とガチャンと切られてしまいました。その勢いに、彼女はもう一度電話する勇気はありませんでした。
考えあぐねた彼女は依頼した調査業者に、報告書の人物が本当に彼に間違いないのかを問い合わせてみました。
「ええ。間違いないですよ」
担当の人はそう答えました。
彼女は困ってしまいました。彼には連絡を取りたいし、かと言って、あのお父さんは恐いし…。
彼女は手紙を書くことにしました。
「突然のお手紙をお許し下さい。私は昨年の暮れにパブであなたにぶつかって、ウイスキーでズボンを濡らしてしまった者です…」
手紙の書き出しはこんな風に始めました。そして、「もしよろしければご連絡をいただきたい」と、自分の住所と電話番号を記したのでした。
手紙を投函して一週間も経たないうちに、彼女に電話が入りました。しかし、それは彼本人ではなく、お父さんだったのです。お父さんの話によると、彼は現在学生で、半年前から家出をしていると言うのです。
「息子が今どこにいるのか、あなたは知っているんではないですか?」
そんなことを聞かれました。
驚いたのは彼女の方です。居所を知っているどころか、探しているのは自分なのですから。どうやらお父さんは、彼女が彼の居所を知っていて隠しているのではないかとさえ疑っていたようです。
会話の中でその誤解は解けましたが、話を聞いていると、家出中の人物は彼女が思っている彼とは同姓同名の別人のような気もしました。あの時の彼はどう見ても学生ではなくサラリーマンだったし、同僚達との雰囲気では家出中の人間とはとても思えませんでした。 彼女は再び調査業者に問い合わせてみました。お父さんとの話のいきさつを伝え、本当にこの人で間違いないかを念を入れて尋ねたのです。業者側は間違いないと言い切りました。
彼女にしてみれば、どうしても腑に落ちません。しかし、当の本人が「家出中」であれば確認しようもありませんでした。
「やっぱり縁がなかったんやなぁ」
「諦めるしかない」と、彼女は思い切ろうとしました。
<続>

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