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まだ見ぬ異母妹を探して(2)| 秘密のあっ子ちゃん(211)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

天涯孤独の身と思ってきた依頼人(43)が二十歳の時、戸籍謄本から偶然にその存在を知った異母妹。
二十年以上も「会ってみたい」と思いつつ、いざ探すとなると自分の存在を知らない、まだ見ぬ異母妹に受け入れられ るかどうか・・・とどうしても踌躇してしまう依頼人でし た。だからこそ、彼はワラをもつかむ思いで、当社に相談してきたのでした。
しかし、まだ迷いに迷っていました。私は「もう一度、よくお考えになってからでも遅くはないと思いますヨ」と言って、電話を切ったのでした。
そして一カ月後、彼はやっと心が決まったのか、「やはり調べてほしい」と申し入れて来ました。
手掛かりは、彼が二十歳の時に取った戸籍謄本だけでしたが、この調査はずいぶんと難航しました。私たちは、まず謄本に記載されてある妹さんの出生地と、その母親の名前を頼 りにたずね回りました。
しかし、だれもその母親の名前を記憶している人はいません。彼女たちは、どうもごくわずかな期間しか、そこには住んでいなかったようです。
ましてや、彼の父親のことになると、皆目だれも知りませんでした。
唯一、希望が持てたのは、「少し離れたあるお宅のおばあさんが、ひょっとしたら彼の異母妹の母親と友人だったかも知れない」という話を聞き込んできた ことでした。
私たちは早速、そのお宅を訪ねました。しかし、その時、おば ちゃんは脳卒中のため入院していたのです。
結局、おばあちゃんからは何も話を聞くこともできませんでした。そこのお嬢さんは気の毒がってくれましたが、お ばあちゃんの症状は思わしくなく、しゃべれる状態ではなかったのです。
私たちは役所にも日参しました。
初めは「プライバシーの問題もあり、お見せするわけにはいきません」とケンもホロロの対応です。
こうした対応は当然予測していましたので、依頼人から預かった委任状と謄本を見せて事情を説明し、理解を求めました。しかし、それでも「そんな前例はない」という渋い返答でした。やむなく依頼人に同行してもらい、さらに詳しく事 情を説明したところ、彼が妹さんと肉親であることをやっと分かってくれたのか、係の人は台帳を調べて くれたのでした。「特例ですよ」と念を押しながら…。
ところが、大変な努力をしてそこまでこぎつけたにもかかわらず、妹さんは出生届が出されただけで四十年間、住民票の移動などが全くなく、『職権承除扱い』となっていました。
五年以上、居所がつかめず、役所で調査しても住民票の所在地に存在しない人は登録から抹消されるのです。それが「職権承除扱い」と言います。
依頼人の落胆は、それはもう大変なものでした。
『つまり、役所では行方不明扱いになっていますネ。死亡届が出されていないので、生存はされていると思いますがネ・・・』。役所の説明はこうでした。
依頼人の落胆は、それはもう大変なものでした。私達も、彼女がどんな人生を歩んでこられたのかということを、考えずにはいられませんでした。
調査を開始して、三カ月近くがたっていました。
そんな時、あの入院しているおばあさんのお嫁さんから連絡が入ったのです。
そのお嫁さんの話によると、おばあさんは確かに依頼人の異母妹の母親を知っていたそうです。
母親は妹さんを産んだ 後、二人の父親とは無理に別れさせられ、すぐに東京に嫁がされていったということでした。 『母が言うには・・・』彼女は、おばあさんから聞いた 当時の話を私達に聞かせてくれました。
『二人(依頼人とその異母妹)のお父さんは、日本でも指折りの宮大工だったそうです。ただ一つ問題だったのはたいそう酒癖が悪くて、周りの者がいくら注意しても直らない。しまいには、酒代のためにお母さんの着物まで質に入れ、それを止めようとする彼女に手をかけたりしたそうです』
『怒った彼女の父親は、彼女を連れ帰り、入籍していないのを幸いに、すぐに東京の方へ嫁がせたのだそうです。妹さん(異母妹)は、そのままお父さんのもとに置かれたようです』
依頼人の父が有名な大工だったということも含めて、そうした話は彼自身でさえ全く知らない事実でした。
私たちはおばあさんがかすかに覚えていた彼女(お母さん)の弟さんの名前から、苦心さんたんして、やっとのことで現在の彼女の居所をつきとめることができました。
さて、いよいよ彼女に連絡を取り、彼女の娘、すなわち依頼人の異母妹の所在を聞こうとした時、突然、依頼人からのストップがかかったのでした。

<続>

まだ見ぬ異母妹を探して(1)| 秘密のあっ子ちゃん(210)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 人はさまざまな人生をかかえて生きています。
 だれもが多かれ少なかれ、その人なりの苦労をし、小さな喜びを支えに、持って生まれた『星』のもとで精いっぱいに生きておられます。その人生に「重い」「軽い」の区別はありません。
 しかし、時として思わず絶句してしまう人生にぶつかることがあります。
 その依頼人は四十三歳の男性でした。彼が当社へかけてきた電話は、「現在四十歳くらいになる、ある女性に会いたい」というものでした。
  初めのうちは『思い出の人を探したいのだろう』と話を聞いていましたが、その内容がどうにも要領を得ないのです。
 彼女の氏名だけははっきりと言うのですが、どこで会ったのか、いつごろのことなのか、探す手掛かりの有無は・・・といったことも、「何も分からない」と繰り返すばかりでした。
 「そもそも、あなたと彼女はどういうおつながりなのですか」
 私は聞きました。
 彼は一瞬ためらい、そして言ったのです。
 「実は、まだ一度も会ったことのない異母妹なのです」
 それまで詳しい話をすることに躊躇(ちゅうちょ)しているかのような依頼人でしたが、『異母妹』という言葉を口に出した途端、思いを定めたかのように一気に話し始めました。
 彼は成年に達するまで児童福祉施設で育ちました。
 一人っ子でした。
 母親は小学一年生の時に死亡し、父親に連れられて施設に入所したそうです。
 その後、父親は二、三度だけは彼に会いに施設へやって来てくれたそうですが、それ以降は全く音信不通となりました。
 父親は、もともと母親が健在だったころからよく家を空ける人で、彼には父親に遊んでもらった記憶がほとんどありません。
 緑の薄い父親をそれほど恋しいとは思わなかったそうですが、やはり唯一の肉親です。父親が消息不明になってしまったことは、幼い身にとって、とても心細かったと言います。
 二十歳になった時、彼は 自分の父親の戸籍謄本を取りました。すると、そこには何と、父親が二年前に死亡していることが記載されていたのでした。ショックでした。
 しかし、驚きはそれだけではありません。父親に婚姻歴がなく、母は入籍されてなかったばかりか、自分以外にもう一人、認知されている女の子の名前を発見したのです。 その名前を見たとき、彼はうれしかったと言います。『天涯孤独の身』と思っていた自分に、血のつながった妹がいることが分かったのですから・・・。
 彼はこの異母妹に会いたいと思いました。いつかきっと探し出して兄妹の名乗りをあげたいと思いました。
 しかし、その思いは二十年たっても実現しませんでした。
  どんな人なのか、自分を 兄として受け入れてくれるのか・・・。そうしたことをあれこれ考えると「いざとなると、どうもためらってしまう」と彼は言いました。
 そして、当社へ電話してきたときでさえ、彼はまだ迷っていました。

<続>

憧れの主治医の先生(3)| 秘密のあっ子ちゃん(209)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

手紙で依頼してきた彼女は、先生へ寄せる心情をこう述べていました。
「大変素晴らしい先生で、他の患者さんからも信頼のある先生でした。先生にはずいぶんご迷惑をおかけしたと思いますが、嫌な顔ひとつ せず、本当によくして下さいました」
「できることな ら、もう一度お会いしてお礼申し上げたいのです。私のことを覚えていらっしゃるか、四年前と変わらずにいらっしゃるのか。それがとても心配ですが、今のままでは心の整理がつきません」
二週間後、私たちは先生の現在の住所を探し当て、彼女に報告しました。先生は山口県下の病院に勤務していました。
それから三カ月後、彼女からの手紙が、私たちの元へ再び届きました。
「先生に手紙を書きました。そして、しばらくしてお電話を頂きました。四年間の空白は少しございますが 時折、電話をいただいてお話ししております」
そして、こう結んでいました。
「今度、休みの日に先生に久しぶりに会い に行くことになりました。これからも、このままよいお付き合いを続けていけると思っております」
その手紙を読んで、私には彼女の晴ればれとした顔が見えるようでした。

<終>

 

憧れの主治医の先生(2)| 秘密のあっ子ちゃん(208)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

あこがれの若い医者(29)に会いに行くためにバスケットの練習の合間を縫って病院へ通い詰めた依頼人。廊下で先生が通るのを待ち、ひと言、ふた言、言葉を交わす…。そんなことが一年半ほど続いた十八歳のクリスマス。彼女は友人達で催すパーティーに先生を誘いました。
先生はかわいいクマの縫いぐるみを彼女へのプレゼントにと、持ってやってきてくれたのでした。その日のパーティーは盛り上がり ました。
先生は、病院にいる時よりもずっと気さくで、彼女の友人達ともすっかり親しくなって帰って行きました。
翌年の三月、彼女が高校を卒業することから、彼女は先生と交際を始めました。
二人で映画を見たり、食事をしたり、時にはドライブもしました。
彼女は勤め始めたばかりの会社の人間関係の悩みや両親とのいざ こざ、将来のことなど何でも先生に相談しました。
先生は自分のことを話すより、たいていそうした彼女の相談相手 になってくれていました。
二人の交際はこんな風に二年間続いたそうです。
彼女が二十歳の時、 両親の強い勧めで、ある縁談話が持ち上がり ました。両親は、早く彼女を嫁がせたいと思っていたそうです。
まだ嫁に行く気のなかった彼女は、このことも先生に相談しました。
先生は「一番大切なのは君がどうしたいか、ということだ」と答えました。
『まだ結婚なんて。それに好きなのは先生なんだから・・・』と思っていた彼女でしたが、両親の強い希望との間で板挟みになり、悩ん でいました。
そんな彼女を見て、先生はこう言いました。「そんなに悩むなら、一度会ってみればいい。それから決めても遅くないんじゃないかな?」
そのころ、先生に転勤の話が出ていました。彼女は絶対に転勤してほしくはなかったのですが、結局、転勤していきました。
「落ち着いたら、連絡するよ」
最後に会った日、先生はそう言って別れました。
その後、彼女はずっと先生の音信を待ちましたが、先生からの連絡はついにきませんでした。
たまりかねた彼女は、転勤先の病院に電話しました。しかし、先生はそれから半年もたたないうちに、また別の病院へ転勤しており、その後どの病院に異動したのかは教えてもらえなかったそうです。
四年後、二十四歳になった彼女は私たちに手紙を書いてきました。
「母が買ってきた雑誌に 目を通していて、貴社の記事が飛び込むように目に入ってきたのです。私にも探していただきたい方がいま す。何度も何度も記事を読み、その思いは募る一方で ペンをとった次第です」
そして、彼女はこうも書いています。
「あのころ、私の方もいろいろとありまして(結婚)、先生のご判断で連絡が途絶えたのだと思います。その後、私は結婚しないまま現在も一人です」

<続>