これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
その日、沢村安希さんは、目の覚めるような鮮やかな紫色のスーツに、同色の高いハイヒールをはいて私の事務所へ入ってきました。栗色というには少し赤すぎる髪の毛をすっきりショートにし、耳にはやはり紫の大きなイヤリングをしていました。
彼女を迎え入れた私は、まるで今から新地のクラブへでも勤めに出かけるような彼女のいでたちにいささか驚きました。電話で二、三度話した時のイメージでは、ごく普通の明るい活発なお壊さんだと思っていたのです。もっとも三十分後には、はっきりものを言う根っから明るい女性だという点は間違っていなかったと確認したのですが……。
「探してほしい人は〝近藤守″という名前です」
彼女の話は、もう十四年も前のことでした。
この時間帯には、電車の乗客といえばほとんどが学生だ。
安希は小学校六年生。彼女の通う関西の私立小学校は、中学、高校、短大までの一貫教育で、加えて近所には中・高の男子校や共学の府立高校があり、それらの生徒たちがこの駅でいっせいに改札口から吐き出され、制服ごとにおのおのの校門へ向かって歩きだす風景はまさに壮観だった。
安希は五年生の時に、校区の小学校からこの私立学校に転校した。以来一年半以上、四十分の電車通学をしている。通学が苦になったことはない。むしろ今では電車で通うこの時間が、彼女の一日の中で一番の楽しみになっている。
電車の中で会える人がいるからだ。
梅田発の準急電車が石橋駅を過ぎると、五、六人の男子学生が、いつも後方から連結のドアをグッと開けて、二両目の車両に入ってくる。彼らは一番前のドアのところで立ち止まり、駅に着くまで話していた。胸についた校章で、彼らが男子校の高校生であるのがわかる。その一団に〝近藤さん″がいる。リーダー格で、いつも同級生や後輩たちと一緒だった。
安希は彼を発見したこの冬から、必ず二両目の一番前のドアに乗るようにしているのだ。
近藤さんを初めて見たのは十二月だった。その日はいつもの電車にあやうく乗り遅れそうになり、ダッシュで最後尾の車両に駆け込み乗車をした。
ホッと安心したところで、友達がいる一両目に移動しようと歩き始めた。彼女の前には、五、六人の一団が歩いていた。彼らは二両目の一番前で止まり、喋り始めた。どうやらそこが彼らの定位置らしい。
安希はその一団の中に〝すっごくカッコいい人″を発見した。
彼は学生服の上にべージュのトレンチコートを羽織り、白いマフラーを無造作に巻いていた。髪を流行りのリーゼントにしており、ちょっとヤンキー風だったが当時人気のあった井上純一にそっくりだった。
安希は本来、この手のタイプはあまり好きではない。
「女を泣かしてばっかりと違うのん?」
子供心にそう思っていた。
けれど彼はちょっと違うような気がする。見た目はその通りなのだが、清潔感があってすがすがしい印象だ。しかも背が高い。安希は背が高い人が好みなのだ。
「あの人はリーゼントやない方がええわ」
こういうタイプでも「彼なら許せる」と思った。
仲間が大声で騒いでいても、彼だけは静かにうなずき、時々その整った唇にふっと笑みを浮かべていた。それはグループの他の高校生たちよりはるかに大人に見えた。
「シブいなあ……。うん、これが男の哀愁とダンディズムってやつや!」
電車が駅に着くなり安希はドアから飛び出し、前を歩く友人を追いかけた。学生たちの波をかいくぐり、背中のランドセルを大きく揺らしながらホームを駆け抜ける。
「ともちゃーん!ゆかちゃーん!」
「あ、安希!乗ってたん?乗り遅れたんやと思てた」
「ねえ、ねえ、ねえ。そんなことより、すっごいカツコいい人見つけたん!えーとね、ほら、ほら、あの人!トレンチコート着た人!」
安希は後ろをのぞき見るようにして、友人の松井智子と安藤由香に教えた。
「えー、あの人!?安希、あかんよ、あの人は私が前からええなぁって思てたんやさかい」
「えー?そうなん!?智ちゃん、前から知ってたんやあ」
「うん、おとといからね。安希、取らんといてや」
智子はそう言うとニッと笑ってみせる。
「おとといからやったら、私と変わらへんやん。そんなの知らんよーだ」
安希は口をとがらせる。
「二人一緒でええやん」
由香が半分あきれ顔で言った。
安希は知らなかったのだが、彼は小学校の女子の間では「カツコいい」と評判のちょっとした有名人らしかった。ほかのクラスからウワサを聞き込んできた由香が、さっそくその日の午後には教えてくれた。
翌日から安希と智子、そして由香の三人は二両目に乗り合わせるようになった。石橋駅を過ぎたころ、〝トレンチコートの彼″とその友人らが後方からやってくる。安希たちはさりげなく彼らのそばに寄り、腕をつつきあってはじっと彼らの話に耳をそばだてた。しばらくはそんな毎日が続いた。
そのうち、なんとしてでも〝トレンチコートの彼″の名前を知りたくなってくる。
正月を過ぎたころ、安希は智子と二人で思案し、放課後、由香にも手伝ってもらって「アンケート用紙」を作ることにした。そこには「名前、年齢、趣味……、」と彼のことで知りたい項目を書き込んだ。
彼一人だけではわざとらしいと思い、同級生や後輩の分も含めて六枚作った。
翌朝、いつものように彼らが二両目にやって来ると、安希はつかつかと歩みよってアンケート用紙を彼に手渡した。
「これ、書いて下さい」
「なんや、なんや」
周りの友人たちがのぞき込む。
「アンケートです」
智子が言う。
六人は特に何も聞かず、「ふーん」とうなずきながら素直に用紙に書き込んでくれた。今から思えば子供の遊びか何かと思っていたのだろう。安希たちが小学生だということに気をつかってか難しい漢字を使わず、ほとんどひらがなで書いてくれていた。
彼の名前がわかった。
「こんどうまもる」
高校二年生で、バンドを組んでいるということも書かれてあった。
「私、もうええわ。『近藤さん』は、安希に譲るわ」
そう智子が言ってきたのは、〝アンケート″を取って一週間もしないうちだった。
「えー?なんで?」
「もう、飽きた。また、違う人探すわ」
「ほんまやね。後から気が変わったって言うても知らんよ」
安希は智子の前でつるつる滑りそうな廊下を「♪ル、ルン」とスキップしていた。
月が替わって二月になった。いよいよ二月がやってきた。二月にはバレンタインデーがある。
安希は十四日には「近藤さんに絶対、チョコレートを渡す」と決めていた。
バレンタインデー前日、安希はきれいに包装したチョコレートを用意し、手紙を書いた。
『大好きな、大好きなこんどうさんへ。ずっと見ていました。好きです。
よかったらこのチョコレートを食べて下さい。 あき』
それだけ書くのに二時間かかってしまった。
書き終えて急に心配になってきた。
受け取ってもらえなかったらどうしよう。相手にされなかったらどうしよう。
そんな心配が次から次へと頭をよぎる。
「大丈夫。近藤さんは優しいから、たぶん受け取ってくれるよ」
手紙とチョコレートを前に、安希は自分を励ますようにつぶやいてみた。
「安希!もう遅いんやから、早う寝なさい!」
階下から父の声がした。
<続く>
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