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彼女の舞う姿が脳裏に・・・(1)| 秘密のあっ子ちゃん(171)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

今回は”戦前”のお話をいたしましょう。
大正四年生れの依頼人が当社に連絡してきたのは、三年前の暮もおし迫まった朝のことでした。彼は『五十年以上前のことでも調べてもらえるのですか?』と聞いてきたのです。
その時、彼は七十六才でした。彼は、戦前地元の島根から京都に出てきて、京都帝大に通っていました。そんな彼が二十才のころ、卒業していった寮の先輩のあとを引き継いで、ある家の家庭教師へ入ることになったのです。
その家は京都でも有数の資産家で、子供達は旧制中学校に通う長男と女学校に通う長女がいました。家庭教師の目的は当時中学校四年生だった兄の進学のためのものでしたが、彼がその家に通うようになってからは、ついでにということで女学校の妹の勉強もみることになりました。
中学生の兄はなかなか優秀な生徒で、志望の帝大進学はいずれは間違いないものと思われました。そして、妹の方もとても聡明な少女だったと言います。女学校の勉強だけでなく、厳格な家庭柄、花嫁修業としてのお茶やお花、そして日舞もそつなくこなしていたのでした。
依頼人が探したいというのは、彼が二十才のころ家庭教師をしていた旧制中学の兄の方ではありませんでした。”ついでに”と教えていた女学校の妹の方だったのです。
彼女は当時十四才で、とても聡明な少女でした。母親のしつけも厳しく、花嫁修業としてのお茶やお花などもそつなくこなしていました。特に日舞の腕前は大変なものだったと言います。そのころ、大阪の中央公会堂で踊りの発表会か何かの催しがあり、彼女が舞台の上で一人で舞っていたことが、依頼人の記憶に鮮明に残っていました。
その後、彼が大学を卒業して、家庭教師を辞す時、彼はその家へ挨拶に出向きました。昭和十一年のことでした。
応対に出たのは、母親と彼女でした。彼の今後の身の振り方や、島根の実家のことなどひとしきりの世間話のあと、『お別れに』と彼女が舞ってくれたのです。
彼女の舞い姿はそれは美しく、中央公会堂で彼が初めて目にした彼女の踊りの素晴しさ以上のものでした。
彼が彼女を見たのはそれが最後となりました。
彼はそれから五十五年もの間、彼女の美しい二つの舞い姿を脳裏に刻み込んできたのでした。

<続>

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