これは1994年に出版された、佐藤あつ子著「初恋の人、探します」(遊タイム出版)に収録されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。
七回裏の阪神タイガースの攻撃が始まり、甲子園球場には黄やピンクの風船が舞った。
昭和63年のプロ野球のペナントレース、阪神は開幕早々の三連敗を喫していた。
「ヤキソバはいかがっすか!ヤキソバ!」
孝はネット裏のグリーン席通路で、焼きそばを売っていた。
今日は巨人との一回戦。何が何でも甲子園で一勝目をあげたいところだったが、観客の期待とはうらはらに、二人のバッターが立て続けに三振に倒れた。
「あーあ」
客に合わせてため息をつきながら、孝は焼きそばを入れたボードを持ち直す。
売り子のバイトはクラスの友人の紹介で、高校2年生になったこの春から始めた。学校はアルバイトを禁止していたが、友人たちの多くは学校帰りや休日にはバイトをしている。授業が終わってからでも十分間に合い、試合のある日だけの仕事なので、孝には好都合だったのだ。初日、球場職員に「何を売る?」と聞かれ、「何でもいいです」と答えたら、焼きそば係に回された。
次の打者・和田が内野安打で一塁に出ていた。ツーアウトランナー一塁。
バッターボックスには三番バッターの掛布。球場を埋めた4万5千人の観衆から声援がうずまいた。現在スコアは1対4.一発が出て2点入れば、逆転もあり得る。
一塁側外野席では、ひっきりなしに「掛布のテーマ」が演奏され、応援旗が大きく振られ、黄と黒のメガホンがたたかれた。「3年前の夢をもう一度!」。誰もがそう願っていた。
掛布の大ファンである孝は焼きそばを売る手を止め、グラウンドを見やった。
その時、グリーン席の出入口の階段から、席案内の女性係員に案内されて中年のアベック客が入ってくるのが目に入った。男の方は球場には少し不釣り合いなグレーのダブルのスーツ姿、女は水商売風でどこかのママさんのように見えた。
「いかにも同伴やなぁ」
そう思いながら、もう一度、席案内の女の子を見て目をみはった。
「きれいな人やなぁ」
孝はしばらく彼女に見とれてしまった。
深緑色のスカートに同色のネクタイ、白のジャケットという制服に165センチくらいのほっそりした身体を包んだ彼女は、とても清楚だった。たぶん自分より二つか三つ年上ぐらいだろう。しかし随分大人の女性のようにも見えた。客の席を指し示すさりげないしぐさも、穏やかで優しげなほほえみも。
案内係の彼女は客が席に着くと、すぐにグリーン席の出入口に姿を消した。
その時、客席からどよめきが起こった。
孝はあわてて試合の方に目を移した。
掛布の打った打球がふらふらとショートに上がり、巨人の岡崎選手のミットにしっかりと納まっていた。ランナー残塁のまま、スリーアウトチェンジ。
場内を大きなため息が包んだ。
掛布は3年前からは想像できないくらい、すっかり精彩を欠いていた。
7回が終わって、孝は売れ残った焼きそばを持って引き揚げた。
簡単な片づけと精算を済ませると、すぐに一塁側のスタンドへ走っていき、試合の続きを見た。9回表の巨人の攻撃が終わった時点で、得点差はすでに5点になっていた。
9回裏、またもチャンスに掛布が登場したが結局凡退し、試合はあっけない幕切れを迎えた。これで阪神は4連敗。最下位だ。明日のスポーツ新聞の売上げも落ちるだろう。
観客は六甲おろしを歌うことができず、潮が引くように球場から引き揚げていった。
孝は観客の波に飲み込まれないように身を斜めにしながら、従業員用の通用門へ向かった。受付係のロッカー室の前まで来た時、思わず足を止めた。
あの女性がまだ制服姿のまま、同僚と立ち話をしていた。
孝はじっと彼女の横顔を見た。背中まである髪が頬の半分を隠していたが、透き通るような白い肌がよくわかる。その透明な肌がすっきり通った鼻すじと桜色をした唇を際立たせている。
彼女がふいにこちらへ顔を向け、孝を見た。孝はとっさに目をそらせ、通用門へ向かって小走りに駆け出していった。
それからというもの、バイトの時は毎回彼女を見かけるようになった。通路や受付係のロッカー室の前、従業員の食堂の時もあった。
いや、実際は意識的に彼女の姿を探していた、と言った方が正確だろう。試合が始まるまでに彼女の姿を見つけることができなかった日は、焼きそばを山盛りに乗せたボードを持って、よくネット裏のグリーン席へ回った。売り上げも大事だったので、あまりじっとしてはいられなかったが、それでも彼女の姿を探して自然に足がグリーン席に向かった。
オールスター戦が間近にせまったある日、孝は一つの決意を持って学校から球場を目指していた。
「今日こそ彼女の名前を知るぞ」
~続く~
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