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「調査依頼」は人生そのもの| 秘密のあっ子ちゃん(175)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

昨年十月から始まったこの連載、その間に紹介させていただいたエピソードは五十一話となりました。
浮気調査で十二時間もパチンコ店での張り込みを続けたスタッフの苦労話、家出した一人娘の捜索から、新幹線で出会った少女を探してほしいという依頼。はたまた、満州開拓団で一緒だった彼女の消息を求めてきた男性の話から、まだ見ぬ腹違いの妹を探してほしいという依頼・・・。
そこには、さまざまな人間模様が描き出されています。一つ一つの依頼の中に、依頼人の喜び、哀しみ、そして思い入れがあふれているのです。それは、「調査依頼」ということを通して、それぞれの人の一つ一つの人生そのものでした。
人は何故“思い出の人” を探すのでしょうか? 私は「初恋の人探しま
す」という業務を通じて、こう感じています。
過去に出会った忘れられない人を探す。それは過去の思い出にこだわっているだけなのではなく、自分自身の生きざまや、今ある自分の原点を求めておられるのだということを。
もし皆さんの中にも、そうしたことを求めておられる方がいらっしゃるのなら、一度”過去の忘れもの”を取りにいかれてはいかがでしょうか。

<終>

彼に届けてほしいもの(2)| 秘密のあっ子ちゃん(174)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

別れて三年。今年の二月まで電話をくれていた彼と連絡が途切れて、プレゼントを渡してほしいと依頼し てきた彼女の目的は、彼とよりを戻したいということではありませんでした。 手紙は続きます。
『・・・連絡が途切れて、普通それだけならこだわらな いのですが、この七月、関西出張の際、梅田駅で彼らしい人を見かけたのです。声をかける間もなく、その 人は人混みに消えていきましたが、その後とても気になるのです。というのも、私は十一月にはボストンへ留学し、その後ひき続き向こうで研究室勤務となります。そうなると、多分、もう彼には会えないと思うのです・・・』
彼女はこれまでもイギリスやドイツに留学しています。勉強のためといっても慣れない海外の生活に踏み出し、今の職業を選ぶことができたのも、彼の理解とアドバイスと励ましによるものでした。
彼女は『今の自分があるのは全て彼のお陰』と思っています。ですから、彼女 は、海外へ立つ前にせめて自分の感謝の気持ちを伝えたかったのでした。しかも、あれこれ連絡を取り合うつもりはなく、小包に入 れられていた感謝の気持ち としての財布とキーケース が彼の手元に届けばそれで満足だったのです。

依頼人のボストン留学の出発までにと、私達がやっとの思いで住所を判明させた当の彼は、『明日、引っ 越しする』と言うではありませんか!絶句しそうになりながらも、私は『できたら、彼女 が出発するまでにお渡ししたいんですが・・・』と言いま す。
『引っ越したあとしばらくはバタバタしますし、うん・・・』と彼。
『もう、引っ越しの準備はお済みになられたのですか?』
『ええ、だいたいは』
『それでは、今からお伺いします』私はもはや有無 を言わせない調子で言った のでした。 時刻は午後七時半をすぎていました。一時間あれ ば、彼の家に着くはずで す。
チャイムを押すと、すぐに彼が出てきてくれまし た。なかなかの好青年で す。
『わざわざ有難うございました。彼女はいつ出発するのですか?ボストンの住所は分りますか?クリス マスカードぐらいは出した いと思っています』
彼はそう言いました。
帰りの駅までの道すが ら、私はもうすぐ満月になりそうな月の光がまっすぐに私の身体の上にさし込ん でいるような、そんな感覚に捕らわれながら歩いていました。

<終>

彼に届けてほしいもの(1)| 秘密のあっ子ちゃん(173)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

ある日、当社に東京から見覚えのない女性名で小包が届きました。
その小包には美しく包装された品物が入っており、一通の手紙が添えられていました。
『貴社にご依頼するのに、お電話するかまたは来社するのが筋なのですが、私は東京在住の上にコンピューターのプログラミングを扱っておりますので、お電話することもままならず、お手紙を書いた次第です。実は、この品物を彼に渡していただきたいのです』
手紙はこんな書き出しで始まっていました。
それによると、彼は大阪の病院に勤務している技師で、彼女は彼と二、三年前まで交際していたらしいのです。どういう理由で別れたかは手紙の内容からは定かではありませんでしたが、別れた後も、彼女が出張で大阪へやって来た時、新大阪駅で偶然出会ったり、あるいは今年の二月ごろ彼が電話をくれていることが留守電のメッセージに入っていたりしていました。しかし、彼女は家を空けていることが多く、そのまま連絡が途切れてしまったと言います。
彼女が当社に依頼してきた動機とは、彼とよりを戻したいということではありませんでした。

<続>

彼女の舞う姿が脳裏に・・・(2)| 秘密のあっ子ちゃん(172)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

戦前、大学時代に家庭教師をしていた教え子の美しい舞い姿が脳裏に焼きつき、五十五年たった今、彼女にもう一度会いたいと願う依頼人(76才)でした。
『ずっと気にかかっていたのですが、結局、今まで会えずじまいになってしまいました。数年前、大学の同窓会で、兄の方は医者になったと噂で聞いたのです。それで、友人に全国の医者の名簿を見てもらったのですが、それらしい名前はありませんでした』
私達は、彼女の女学校の後身の高校と、実家が京都の旧家で資産家だったということから、その二つのルートから調査を行ったのでした。
ほどなく実家ルートから教え子の一人、お兄さんの方の所在が判明してきました。
お兄さんは同窓会の噂とは全く違い、医者ではなく、上級公務員となり、現在は退官されてある大手証券会社の相談役になられていました。
私達は、お兄さんに妹さんの消息を聞くべく訪ねていったのでした。
『ああ、家庭教師をして下さった方ですね。よく覚えていますよ。お元気でいらっしゃるんですか?』
ひとしきり、依頼人の話題に花が咲き、いよいよ妹さんの話となりました。
『妹ですか?・・・それが、もう随分前に亡くなったのです』
彼女は、昭和十七年、海軍の軍人と結婚しました。しかし、夫は昭和十九年に戦死し、彼女は未亡人となってしまったのです。その後、彼女は実家の方へ戻り終戦を迎えましたが、そのころから体調が思わしくなくなっていきました。そして、昭和二十一年が明けてすぐに、腹膜炎で死亡してしまったのでした。
『あの戦争を無事生き抜きましたのに、戦争が終わってすぐに亡くなったのは
残念なことです』
お兄さんはそう言いました。
『父は若いころから病気がちでしたが、八十四才まで生きました。母も父が亡くなった翌年に他界し、今年十三回忌を終えたばかりです』
そしてこう続けられたのでした。『両親も亡くなり、妹ももういず、残ったのは私だけになりましたが、私も家庭教師をしていただいた身。お陰で志望校にも入れました。五十五年も経って、本当に懐かしいです。是非ご連絡してもらって下さい』と。

<終>

 

 

 

彼女の舞う姿が脳裏に・・・(1)| 秘密のあっ子ちゃん(171)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

今回は”戦前”のお話をいたしましょう。
大正四年生れの依頼人が当社に連絡してきたのは、三年前の暮もおし迫まった朝のことでした。彼は『五十年以上前のことでも調べてもらえるのですか?』と聞いてきたのです。
その時、彼は七十六才でした。彼は、戦前地元の島根から京都に出てきて、京都帝大に通っていました。そんな彼が二十才のころ、卒業していった寮の先輩のあとを引き継いで、ある家の家庭教師へ入ることになったのです。
その家は京都でも有数の資産家で、子供達は旧制中学校に通う長男と女学校に通う長女がいました。家庭教師の目的は当時中学校四年生だった兄の進学のためのものでしたが、彼がその家に通うようになってからは、ついでにということで女学校の妹の勉強もみることになりました。
中学生の兄はなかなか優秀な生徒で、志望の帝大進学はいずれは間違いないものと思われました。そして、妹の方もとても聡明な少女だったと言います。女学校の勉強だけでなく、厳格な家庭柄、花嫁修業としてのお茶やお花、そして日舞もそつなくこなしていたのでした。
依頼人が探したいというのは、彼が二十才のころ家庭教師をしていた旧制中学の兄の方ではありませんでした。”ついでに”と教えていた女学校の妹の方だったのです。
彼女は当時十四才で、とても聡明な少女でした。母親のしつけも厳しく、花嫁修業としてのお茶やお花などもそつなくこなしていました。特に日舞の腕前は大変なものだったと言います。そのころ、大阪の中央公会堂で踊りの発表会か何かの催しがあり、彼女が舞台の上で一人で舞っていたことが、依頼人の記憶に鮮明に残っていました。
その後、彼が大学を卒業して、家庭教師を辞す時、彼はその家へ挨拶に出向きました。昭和十一年のことでした。
応対に出たのは、母親と彼女でした。彼の今後の身の振り方や、島根の実家のことなどひとしきりの世間話のあと、『お別れに』と彼女が舞ってくれたのです。
彼女の舞い姿はそれは美しく、中央公会堂で彼が初めて目にした彼女の踊りの素晴しさ以上のものでした。
彼が彼女を見たのはそれが最後となりました。
彼はそれから五十五年もの間、彼女の美しい二つの舞い姿を脳裏に刻み込んできたのでした。

<続>