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妻子のために軍人恩給を(1) | 秘密のあっ子ちゃん(130)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

今年も八月十五日が近づいてきました。戦後五十年以上が経ち、あの時代を体験した人々も少なくなってきて、その記憶も風化してきていると言われています。 しかし、こと依頼人の想いを見る限り、それは風化していくどころか、戦争体験の悲惨さやつらさを子供達や孫達に伝えていかなければという想いがますます募っているように私には思われます。
先日も、七十四歳になる老人がその妻と共に調査の相談で当社を訪れました。彼の最大の目的は軍人傷病恩給を請求することにありましたが、それはその実、お金の問題ではありませんでした。
彼は昭和十八年秋に海軍に入隊し、駆逐艦に乗艦して任務を遂行していました。 昭和十九年暮、南方への出撃中途上において、敵機の攻撃を受け、被彈して重傷を負いました。意識不明となった彼が気づくと、被彈した胸部をあら縄でぐるぐる巻きにされて、仮設病院として使用されていた小学校の床に横たわっていたと言います。
かろうじて生き残った傷病兵を急遽、収容した浜辺の小学校は、十分な治療ができる医療設備も整っているはずもなく、彼は肋膜炎を併発し、その後、肺結核を発病してしまったのでした。
その後、小学校の仮設の病院から、当時、療養所として使用されていた温泉旅館に移され、完治しないまま終戦を迎えました。
肺結核であったため、療養所では隔離状態にありましたが、近くの町々がB29やP51の猛爆に合う様を窓から目のあたりにし、看護婦から壊滅状態であったと聞いた時は、あまりのくやしさと腹立たしさに涙したと、彼は私に語りました。そして、参戦できない自分の状況に非常な負い目を感じたとも言います。
結核が治り切らないまま復員した彼は、昭和二十二年、昭和二十五年の二回にわたり、計三年、入院加療を続けました。しかし、病気は一向に完治せず、昭和二十八年、再々入院し、右肺上部と肋骨七本を切除する手術を受けました。昭和五十五年には、肺気胸を起こし、「治療不可能」と宣告されたものを、担当主治医の尽力で、国立病院に緊急に転送され、一命を取り留めたのでした。
彼の戦後は病気との戦いだったのです。
当時は「不治の病」と言われた肺結核。彼のために、両親は山や田畑を売却し、治療費を工面してくれました。結婚後は、妻や子に不自由な思いを強いらざるを得ませんでした。
しかし、病気による自らの辛さのみならず、両親や妻子に苦しみを与えることになる、この病の原因が戦争で受傷したためだということを、彼は戦後、誰にも語りませんでした。それは今に至ってもそうでした。怪我をして帰ってきたことを「大日本帝国海軍」の恥であると考えていたからです。ですから、療養中に発行された傷病に関する証明書などは、復員する前に廃棄していました。
ところが、五十年間の入退院の繰り返しの中で、先日、たまたま同室となった人から、十年前に恩給を請求しそれが認められ、現在受給中であることを聞かされました。その人も戦争で受傷し、依頼人とよく似た症状で入院していたのでした。
彼はしばらく悩んでいましたが、自分の罪悪感や負い目、そして「恥である」という考えを捨てて、長い間苦労をかけた妻子のためにも恩給を請求しようと決意したのでした。
人はその戦争体験についてあまり語りたがりません。それは、原爆の被爆であっても、南方の激戦地における経験であっても、その体験が苛酷であればある程、悲惨であればある程、その傾向が強くなります。
依頼人も自身の戦争体験について、戦後五十年間、家族や友人の誰一人にも話したことがありませんでした。彼の場合はその体験が悲惨であり、苛酷であったということだけではなく、受傷したまま終戦を迎えたことに対する「負い目」ということが加味されていました。空襲を受けて燃え上がる町が空を真っ赤に染めていくのを、彼はただなす術もなく、病室の窓から眺めていたことを「大日本帝国軍人」の恥と感じてきたのでした。
たまたま、同室の入院患者から、十年前に恩給を請求しそれが認められて、現在受給中だと聞いたことをきっかけに、今回、彼が自分の恩給を請求しようと考えたのは、単に金銭の問題だけではありませんでした。 五十年以上の昔のことにいつまでも罪悪感や恥であるという考えに捕らわれ、長い間苦労をかけた妻子に何ら報いることなくきたことへの一つの踏ん切り、つまり、彼自身の人生の総括であったのでした。
私は依頼人の話を聞いていて、何故、今、彼が五十年以上も経って軍人傷病恩給を請求する気になったのか、その真意を理解しました。
彼が必要としているのは、請求のための現認証明でした。
しかし、受傷を恥であると考えていた彼は、療養中に発行された傷病に関する証明書などは全て廃棄していました。また、療養中に終戦を迎えた彼は現隊に復帰せずに復員したため、軍隊手帳や部隊発行の各種の証明書、軍服などは当時、全て本隊で保管していて、彼の手元にありませんでした。加えて、入院していた場所というのが温泉旅館を臨時に療養所として設置されたもので、もちろん今は存在せず、それに病気が肺結核であったため、隔離状態であった彼の入院状況を証言してくれる同室の患者もいませんでした。
従って、彼が戦闘のなかで負傷し、それが原因で長年患ってきたことを証明するのはなかなか困難なことでした。
彼は私達に、とりあえず負傷時の駆逐艦に同乗していた上官や戦友の消息を調べてほしいと言いました。まだ健在なら、そのうちの誰かが自分のことを記憶していて、証言してくれるかもしれないと言うのです。
私達は依頼人の意向を受けて、彼の上官と戦友の消息を当たり始めました。彼と共に駆逐艦に同乗し、彼の負傷を記憶している人を探し出して、証言してもらうためでした。 依頼人の記憶では、その時の戦闘で当時の上官であった少尉が彼と同様に負傷したとのことでした。また、特に重要なポイントになると考えられる人は、班長であった兵長と上等兵です。彼は意識を失っていて知らなかったのですが、運び込まれた病院の看護婦の話によると、この二人が最後まで付き添ってくれていたと言うのです。
私達はこの三人を重点的に調査し始めました。とは言っても、三人について彼が知っていることと言えば、部隊名と氏名と「三人ともおそらく東北地方出身ではなかったか」ということだけです。 なにはともあれ、スタッフは防衛庁を当たりました。「プライバシーの保護という問題があり」と、とかく調査拒否が多い役所の中で、防衛庁はこういったケースに関して常に協力的です。いろいろと資料を調べてくれました。しかし、残念なことに、この部隊についての活動記録が一切残っていなかったのです。
防衛庁では非常に好意的に様々な資料を調べてくれましたが、依頼人が所属していた部隊に関する活動記録は一切残っていませんでした。

<続>

神主の職を捨て・・・(2) | 秘密のあっ子ちゃん(129)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 六年も別れたきりの二人の子供達が、阪神大震災に遭遇した依頼人が無事かどうかを心配し、母親には内緒で自力で彼の居所を探し、会いに来てくれました。
 例の件があって以来、初めて会う子供達の成長振りに目を見張ると同時に、二人の優しさに「父親らしいことは何一つしてやっていないのに…」と、彼は目頭が熱くなりました。
 そして、二人の子供達のその行動は、彼女に対して何一つ動いていない自分の無責任さを問うているようにも思えました。あのゴタゴタの中で、「さようなら」の一言も言えずになっていることが気にかかりながらも、そして彼女の幸せだけを願っていながらも、何一つ彼女の役に立てていなかったのです。
 「彼女が今、どうしているのかを知ろう。あのまま両親に軟禁されているような状態なら可哀想すぎる。もし、誰かいい人と結婚して幸せになってくれているなら、それはそれでいい。ともかく、彼女がどうしているのかを知ることだ」
 彼はそう考えました。
 それでも、彼が当社に依頼にやって来るのには一年半の時間が必要だったのですが…。
 彼は逡巡していました。「彼女の現状を知る」と言っても、一体どうやって?自分が彼女の実家に直接訪ねていくことはもちろんのこと、近所をウロウロするだけでもまた彼女にどんな迷惑をかけてしまうか分らない。かと言って、その辺の事情をよく含んで彼女の現状を探ってくれそうな友人は、もう今の自分にはいない。
 そんなことをアレコレと悩んでいました。そんな時、テレビで当社のことを見たのだと言います。彼はやっと動く気になったのでした。 私はその話を聞いていて、彼が最初、電話で問い合わせてきた時に、「依頼したい」ということではなく、「相談したいことがある」と言っていたことを思い出しました。「どおりで」と私は思ったものでした。
 「彼女が今、どうなっているのか、幸せでいてくれているのか、ただそれだけが知りたいんです」
 彼はそのことを強調して帰っていきました。
 いつものことながら、「こんな人生もあるんやなぁ」と語りながら、私はスタッフに調査開始の指示をしたのでした。
 調査の結果、彼女はまだ結婚もせずに実家で暮らしていることが判明してきました。勤めにも出ず、家事手伝いをしています。
 「そうですか。まだ自由にさせてもらえないでしょうか?」
 依頼人はその報告を聞いて、今の彼女の身の上を案じていました。 「もう少し、詳しい状況は分らないものでしょうか?」彼は私達にそう尋ねました。
 しかし、彼女は今、実家ではどちらと言えば「篭の鳥」のような状況で、近所の聞き込みでも「ああ、あそこの家のお姉ちゃんねぇ。家にいたはるけど、最近はあんまり出歩かはれへんよ」という答えが返ってくるばかりで、私達が報告した以上のものはどの話からも出てこなかったのです。
「何とか知る方法はないものでしょうか?」
彼は再びそう尋ねました。 私達はウーンと唸ってしまいました。「それ以上」というと、もう彼女の両親や本人と接触せざるを得ないからです。
 「それはやはりまずいですね。彼女の両親に私が絡んでいることが分ると、また彼女に迷惑がかかりますから…」彼もそう意見でした。
 私達は彼女の両親に気づかれず、彼女の現状をもっと詳しく知る方法を思案していました。
 「まだ自由がきかないような状況とは思ってもみませんでした。私としては、彼女がいい青年と出会って幸せになってくれていることを願っていたのですが…」 依頼人はそう呟きました。そして、付け加えたのです。
 「私は彼女に出会って、彼女のことを好きになったことは全く悔いていません。彼女への想いは今も変わりませんが、まだしばらくはトラックの運転手をして稼ぎ、生活を安定させなければなりません。もう一度、正々堂々と彼女を迎えに行くにはまだ時間が必要なんです。今の私には彼女に『待っていてくれ』とは言えません。何とか幸せになってくれていればとそればかり願っていたのですが、私のためにまだ自由がきかない生活を強いられているのではと思うと、ますます申し訳なくて…」 
 彼の気かがりは却って増してしまったようでした。私としてもこのまま放っておく訳にはいきません。
「分りました。では、こうしましょう。」
私は一つの案を出しました。
 「では、こうしましょう」 私は一つの提案をしました。
私は彼女を直接訪ねて行くしかないと考えていました。近所の聞き込みでも私達が彼に報告した以上の内容は出てこない現状では、それ以上の方法ということになれば、実は、彼女自身は接触するしかないのです。
 そのために私達はまず、彼女宛に手紙を書きました。それは、彼がきっちりした話もできずに別れざるを得なかったことの詫びと、妻とも離婚し神主の職も失ったが、彼はあなたを好きになったことは全く後悔していないこと、今、一人でがんばっていると、そして、ただあなたの幸せを願っているという内容のものでした。
 この手紙は、私達が彼女を訪ねて行った時に彼女と直接話すことができれば必要ないものですが、未だに両親の監視がきつい時のための小道具でした。
 いよいよスタッフが彼女を尋ねていきました。もちろん、出向いたのは女性スタッフです。
 対応に出たのは彼女の母親でした。
 「どちらさん?」
 母親は怪訝な顔の対応でしたが、それでもすぐに彼女を玄関口に出してくれました。
 スタッフは小声で依頼人の代理できたことを告げました。彼女の顔に「えっ?!」という驚きの表情が現れました。スタッフはこの間のいきさつをもう少し詳しく話そうとしましたが、奥から母親が顔を出し、こちらの様子を窺っています。スタッフはそれ以上、彼のことについては話すことができませんでした。そこでやむなく、用意していた手紙を手渡したのでした。
 手紙の末尾には、「もし、あなたが彼のことを怒っていず、彼に対するあなたの気持ちが昔と変わっていないのなら、一度連絡を入れてあげて下さい」ということと彼の住所、電話番号を書き添えてありました。
  彼女は黙ってその手紙を受け取りました。しかし、明らかに奥から様子を伺がっている母親を気にしている様子でした。
 もうこのあとは彼女自身の判断に委ねるしかありません。
 スタッフが彼女の家を訪ねた翌日、依頼人が早速、当社にやってきました。
 彼は彼女の反応や両親の対応を知りたがっていました。
 「そうですか。やっぱり、まだお母さんが監視しているようなのですね」
彼はため息まじりにそう呟きました。それでも、意外と元気そうな彼女の様子を聞いて、少しは安心したようでした。
 「私共の手紙にはあなたの現状やお気持ちを詳しく書いてありますので、あとは彼女の判断に任すしかありません」
私はそう説明しました。 「そうですねぇ。連絡があれば、それはそれで嬉しいことですが、もしなければ、私ごときに拘わらず、次の人生を歩んでくれているものと考えます。なんにしろ、自分の気持ちを全て彼女に伝えることができましたので、踏ん切りはつきました。私もがんばって生きていきたいと思います」 彼は最後にそう言って、帰っていきました。
 あれから二週間、私達は彼女からの連絡があったのかも気になっていますが、これから彼自身がどんな人生を生きていくのかを気にしています。私達にとって、彼はとても心に残る依頼人の一人となったのでした。

<終>

神主の職を捨て・・・(1) | 秘密のあっ子ちゃん(128)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

関西では激しかった今年の梅雨も明け、暑さが増してきた頃、一人の中年の男性が当社を訪れました。 彼はあまり綺麗ではないポロシャツに綿パン、汚れたスニーカーという出で立ちで、どちらかと言えば肉体労働者風でした。
彼の人探しの調査依頼とは、十二年前に知り合った一人の女性を探してほしいというものでした。しかし、その二人の関係は本人達はもとより回りの人々をも巻き込み、それぞれの人生を変えてしまったのです。
「私は今、四十才ですが、十年前までは神主をしていました。今はトラックの運転手をしているのですが…」 彼はそう話を切り出しました。
彼は三十才になるまではある有名な神社の、何人もいる神主の一人でした。真面目一筋で通り、人の面倒見もよく、神職としてはもってこいの人物と評されていました。当時、彼には妻と幼い二人の子供がいて、家庭内もいたって円満でした。 その彼の人生が一変することになったのは、彼女がアルバイトの巫女として神社に来るようになってからのことでした。
彼女は十九才。その年令としては驚く程古風で、いわゆる「大和なでしこ」と言っても過言ではない女性でした。
依頼人が神主として務める神社に、アルバイトの巫女としてやってきた彼女は十九才でした。 純日本風の顔立ちを持ち、長い髪の毛を束ねた巫女姿がこれ以上似合う者はないと思えるような人でした。それに加えて、何事にも控え目で、立ち振る舞いが礼儀正しく、にもかかわらず聡明で、十九才という年令には似つかわしくない程古風な女性でした。彼は「こういう人こそが『大和なでしこ』と言うんだな」と思ったものでした。
彼は「妻子ある身」ということは自覚していましたが、彼女のことが頭から離れなくなっていきました。 彼女もまた、九才年上の彼に、好きになってもどうにもならぬ相手とは分りつつも、その誠実な人柄と優しさに急速に惹かれていきました。
二人は何の確認の言葉がなくとも、お互いの気持ちが通じ合うようになっていきました。二人のデートは、勤務が終った後に彼が彼女を送っていく道中でした。近くにある大きな公園や御陵を散策しながら、二人はさまざまなことを語り合いました。彼には彼女と話している時間が心の安らぎの時となっていったのでした。
お互いに惹かれながらも、妻子ある身の依頼人の分別で、二人の関係は公園を散策しながら、ただ会話するというだけのものが続きました。
彼女の家庭はかなり厳格な家でした。門限があるのはもちろんのこと、中学、高校時代を通じて、男女交際には両親の厳しい目が光り、ボーイフレンドを作ることもできませんでした。
ある日、公園を散歩している二人の姿を彼女の近所のおばさんが見てしまいました。そのことはすぐに両親の知るところとなったのです。
彼女は「相手は誰だ?」と問い詰める両親に、決して彼の名を明らかにしませんでしたが、こっぴどく叱られてしまいました。これまでは従順に両親の意見に従ってきた彼女でしたが、この時ばかりは両親の言い分が許せず、生まれて初めて反発し、そのまま家を飛び出しました。
しかし、勢いで飛び出したものの、彼女には行く当てもありません。さっき出てばかりの神社に戻ってきたのです。彼女の様子がいつもとは違うことに気づいた彼は、何があったかを問い正しました。
この夜の出来事は、その後の二人の運命を変えたのでした。  彼女(当時19才)が彼のことが元で両親にひどく叱られた夜、二人は結ばれたのでした。
これまで、依頼人の分別で、一線を越えることを踏みとどまっていましたが、彼は彼女のためには全てを捨ててもいいという覚悟で、彼女を抱いたのでした。彼女は彼女で、「妻になりたいということではない。ただこの人と一緒にいたいだけ」という想いで、彼に身を委ねたのでした。
翌日、彼女は家に戻りましたが、両親はカンカンでした。娘の初めての外泊を問い正しましたが、「友達のとこへ泊まってきた」と答えるばかりなのです。その後も、彼女の帰宅はいつもより遅くなることがしばしばでした。父親は「男だ」と直観していましたが、それでも相手は誰かということが分りません。しかも、いくら問い正しても、彼女は頑と「そんな人はいない」と言うだけなのです。
二人は、依頼人の家庭のこと、彼女の両親のことを考えて、慎重に密会を重ねるようになりました。そうしたことが効を奏したのか、彼女の両親の怒りも次第に収まっていました。
そんな関係が三年程続きました。しかし、この頃、二人の関係が天下晒されることになるのです。
依頼人の家庭のことと彼女の両親のことを考えて、二人は会う時も慎重に行動していました。
彼としても彼女のためには全てを捨ててもいいという覚悟をしていましたが、敢えて事を荒立てたくはありませんでした。彼女にとっても、彼の妻子を不幸にしてまで、自分が妻の座に座ろうという気持ちは毛頭ありませんでした。
そんな二人の関係が三年程続きました。二人は会えているだけで幸せでした。 しかし、ある日、ホテルから出てきた二人を同僚の神主に目撃されてしまいました。
それはすぐに宮司さんに知れるところとなり、彼はどういうつもりかを厳しく問い正されました。
宮司さんは「神主としてあるまじき行為」と、鋭く彼を非難しました。彼は「妻子を捨ててでも彼女を幸せにしたいと考えている」と真情を語りました。「妻子を不幸にして『何が誠意は示す』だ!」宮司さんは烈火の如く怒りました。
「君も一人前の大人だ。何が人の道なのか、自分の立場をよく弁え、また、何が彼女の幸せなのかえをよく考えたまえ」
宮司さんは「その結論が出るまでは、この件に関しては自分の胸に収めておく」と言いました。しかし、噂は一挙に広まってしまったのです。
そしてついに、それは彼の妻や彼女の両親の知るところとなりました。
彼の妻は宮司さんの仲立ちで見合い結婚をした女性です。本来は物静かで良識を弁えた人ですが、彼の不貞を知ると、初めて声を荒だてて彼をなじり、二人の幼い子供を連れて実家へ帰ってしまいました。
彼女の両親は両親で、烈火の如く怒りました。「監督不行き届き」として、宮司さんが平謝りに謝りましたが、それでもその怒りは収まらず、彼女巫女はバイトを退めさせ、家の中へ軟禁状態に閉じ込めてしまったのでした。 彼自身も詫びに行きましたが、彼女に会わせてもらうことが叶わなかったのはもちろんのこと、家の中にも入れてもらえず、門前払いにされてしまいました。 彼は、ここで重大な決意をしたのでした。
依頼人と彼女の不倫関係が衆知の知るところとなり、彼女は軟禁され、妻は幼い子供二人を連れて実家に帰り、仲人でもあり上司でもある宮司さんには非常に迷惑をかけてしまう事態となった彼は、重大な決意をしました。
それは一つには、これ以上妻を苦しめる訳にはいかないと、申し出されていた離婚に同意したことでした。二つ目には、神社と宮司さんに迷惑をかけ、神主としてあるまじき行為を行った責任を取るため、神主の職を辞したことでした。
彼は持っていた免許を生かし、トラックの運転手になりました。
彼女の家には何度も足を運び、両親に詫びを入れようとしましたが、その度に門前払いされ、ちゃんと話すことも叶いませんでした。彼女とは問題が発覚して以来、一度も会えていませんでした。
彼は、職も安定し、自分がもう一度きっちりした人間になった時に、再度、彼女の両親に謝りに行こうと考えました。
それから七年の歳月が流れました。妻に子供達の養育費を送り続けながら、彼は懸命に働きました。彼女について思うことは、ただ幸せになってほしいということだけでした。
六年の歳月が流れていました。依頼人はあれ以来、一度も彼女には会っていませんでした。事態が発覚し、妻や彼女の両親や宮司さんまでを巻き込んだ、あのゴタゴタの中で、彼は彼女にきっちりと話をする間もなく別れざるを得なかったのでした。願うことは彼女の幸せだけでした。 離婚した妻は数年前に再婚したと聞きました。彼は、苦しめてしまった妻が幸せになってくれさえすればと、それをも願っていました。妻が再婚しても、彼は子供達の養育費は毎月きちんと送っていました。
昨年、阪神大震災があった折、高校生になった娘と中学生の息子が心配して会いに来てくれました。子供達に会うのはあれ以来初めてでした。二人とも随分と大きくなっていました。その成長した姿を見て、彼は思わず目頭が熱くなったのでした。
聞くと、二人が彼に会いに来たのは母には内緒だと言いました。あんな震災があった直後なので、「お父さん、大丈夫だろうか?」と二人で相談して、市役所の人に理由を話し、頼み込み、彼の居所を探したのだと言います。
彼は子供達の行動に、彼女のことをあのまま放っている自分が問われたような気がしたのでした。

<続き>

冤罪を晴らしたい(2) | 秘密のあっ子ちゃん(127)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

その根拠は、既に時効が成立し、彼自身の収監が間近に迫っている今、あえて調査費用を出してまで真犯人と思しき人物を探し出し、その人物に「名乗り出てほしい」と説得したいということにありました。それは明らかに、罪を誤魔化すためではなく、ただ自分の名誉を回復したいということだけを望んでいることの表れだと私は感じたのです。つまり、やはり彼はやってはいないことの証拠だと確信しました。
「で、その人のことについてはいつまでご存知だったのですか?」
私は具体的なことを聞き始めました。
「ちょうど、事件があった頃までですわ。それ以降は地元でもぷっつり姿を見せなくなってしまいましたんや。やっぱりヤバイと思ったんとちゃいまっか」
後見人の叔父さんが口を挟んできました。
「その人の自宅は今、どうなっているんですか?」 「自宅ちゅうのは、親が住んでましてな、この前、ワシが行ってきたんですわ。ワシの顔を見て、母親は知らん存ぜぬの一点ばりですわ」
叔父さんはそう言いました。
「ワシの顔見て、母親も知らんの一点ばりですわ」 後見人の叔父さんは真犯人と思しき人物の実家について、そう語りました。
「それは、隠しているような感じでしたか?」
そう尋ねた私に叔父さんは再び答えました。
「いや、あれは知りまへんな。ワシに嘘ついたら後が恐いちゅうことは、あの母親やったらよう知ってるはずでっさかい」
「それでは、本人が立ち回りそうな所の心あたりはございます?」
「それらしい所は、ウチの若い衆をつこて当たらしましてんけど、あきまへんな。連れの所も、ここ十年、全く顔を出してませんねん」 「今は歴とした堅気でっせ」と言っていた叔父さんですが、私はその返事を聞きながら、「組長だった昔のまんまやんか」と思ったりしていました。
「それで、ラチがあきまへんから、先生とこへ相談にきたんですわ。何とか力になってやって下さいな。さっきも言うたように、首尾よういったら、悪いようにはしませんがな」
「まだ言うか」と私は思いました。もちろん、律義な依頼人のためにも、この依頼は受けて、何としても調査で結果を出そうとは思ってましたが…。
ずっと話を聞いていて、依頼員は「白」であるという心証を持った私は、この依頼を受けようと思いました。しかし、真犯人と思うしき人物が立ち寄りそうな所は、「後見役」の叔父さんが既に手を回して調べ、事件が起こって依頼全く姿を現していないとのことでした。
「マ、あとと言うたら、住之江くらいでっかな。アイツは競艇が好きやったさかい、まだ関西にウロウロしていたら、絶対、住之江に行くと思いまっけどな」
叔父さんはそう言いました。
しかし、どのレースの火にやってくるかも分からない本人を大勢の人がやってくる住之江競艇の人込みの中で特定するのは不可能なことでした。しかも写真もありません。
「とにかく、一からその人の足取りを追ってみましょうs。できるだけ、あなたが収監される今月末までにその人の居所を判明させるように頑張ってみます。
私は二人に向かってそう言いました。
こうして、私達はこの調査を開始したのです。
しかし、その調査は難行し、杳(よう)として進みません。
二週間が経った頃、依頼人の彼から電話が入ってきました。
「お世話になっています。実は、僕、明日に収監されることになりました。」
彼の第一声はこうでした。「えっ?!明日ですか?」私は何と返答していいか分からず、言葉の次穂を失いました。
「それで、後のことは叔父に頼んでありますので、何か分かれば叔父の方に連絡してほしいんです」 「はい。分かりました。何とかあなたが収監される前にと思ってがんばっていたんですが、間に合わなくてすみません」
調査の結果が出るのが彼の収監に間に合わなかったことに何とも気づつなく、私はそう言いました。
「いえ、それはいいんです。ソイツの居所が分かったとしても、名乗り出てくれるように説得するのには時間がかかるでしょうから、どのみち僕は一度は入らないといけないと思っていましたから…」
彼はさばさばしたような口調で、そう答えました。 「そうですか。くれぐれもお体を大切に、がんばってくださいネ」
私はそう言うのが精一杯でした。

彼が刑務所に入った後も、私達は調査を続行しました。時効が成立している今、真犯人と思しき人物に名乗り出てもらうように説得し、何としても名誉を回復したいという依頼人の想いを受けて、私達は何とか結果を出そうとがんばっていました。
調査は難航していましたが、それでも三週間が経ってた頃、やっと糸口を見い出すことができました。その人物が、今どの辺りに住んでいるのかという情報を得たのです。
私達は早速、その近辺の聞き込みに入りました。その人物は女性と二人で暮らしており、特徴から言っても本人に間違いなさそうでした。しかし、写真がないため、それ以上の確認は不可能でした。
私はすぐに、依頼人の後見役である叔父さんさんにその旨を伝えました。
「その人間の写真を撮ってもらう訳にはいきまへんか。ワシが写真を見たら、本人かどうか判断つきまっさかい」
叔父さんはそう言ってきました。
「その人物の写真を撮ってもらう訳にはいきまへんか?」
依頼人の後見役の叔父さんはそう言いました。
「それが可能ですけど、そうなると、張り込み料が別に必要となってきますけど…。ですから、どなたか、その真犯人と思われる人をご存知の方が一度見に行かれるのがご負担のない安い方法だと思いますけど…」私は答えました。
「金のことはどうでもよろしいねん。心配しはらんでも、何ぼでも払いますがな」
私は「そんな意味で言ってるのと違うのに」と思いながら聞いていると、叔父さんはこう続けました。
「この前、ワシ、検査にひっかかりましてな、明日からちょっと1週間程入院しなあきまへんねん。どっちにしても、退院したら、もう一回連絡を入れさしてもらいまっさ」
それから十日が経ち、2週間が経ちました。叔父さんからは何の連絡も入りませんでした。私は「あれだけ急いでいたのに、どうするつもりなんだろ」と思っていました。
ひと月近くが経ってた頃、私は気になって叔父さんに連絡を入れてみました。
「ああ、あれネ、この前は張り込んでもろて、本人の写真を撮ってもらいたいと言っとりましたけど、もうよろしいわ」
叔父さんは事もなげに、そう言いました。
「そうですか。前にお話ししましたように、私も本人さんをご存じの方が確認されるのが一番いいと思いますよ」
「マァ、マ、その辺のことはこっちで何とかしまっさかい」
叔父さんのこの反応で、私は既に本人であることを確認できたんだなと察しました。
「では、この件はここまででよろしい訳ですね?」 私は念のためにそう聞きました。
「ええ、ええ。えらいお手数をかけましたなぁ」
「それでは、きっちりした報告書と精算分のご請求書をお送りさせていただきますので、よろしくお願いします」
そう言う私に、叔父さんは「へえ、へえ」と言って、そそくさと電話を切りました。
報告書と精算分の請求書を送った後も、「後見人」の叔父さんからはナシのツブテでした。
「やっぱりな。『後のお礼はちゃんとしまっさかい』なんて言って、そんな人に限って正規の料金さえ払いが悪いや」私は改めて思ったものです。もちろん、「お礼」なんていうのを当てにしてはいませんでしたし、依頼人の心情に打たれて引き受けたこの依頼、真犯人と思しき人物の居所を突き止めたスタッフのがんばりに報いる正当な労働対価さえいただければそれでいいのです。
報告書を郵送してからひと月経ってもこんな状態でしたので、私は叔父さんに電話を入れました。
「初恋の人探します社ですが…」私が名乗ると、叔父さんは「あっ!ああ…」と具合悪そうな返答でした。私が「そろそろ料金の精算をしてほしいのですが」申し出ると、叔父さんは「あっちとも相談せなあきませんしな」と言うのです。
「あっちとは、どなたのことですか?」私が尋ねます。
「ああ、アレの母親ですわ」
「そうですか。では、よろしくお願いします」
そう言って、私は一旦、電話を切りました。
「アレの母親に相談しなあきませんから」
「後見人」と言っていた叔父さんは料金の精算についてそう言いました。 「依頼の時には、まるで自分が全面的に面倒を見ているみたいなことを言っていて、やっぱり話が大きいわ」そう思った私でしたが、それでも黙って連絡を待っていました。
それから二週間後、依頼人のお母さんから電話が入りました。
「えらいお世話になりましたそうで…。昨日初めて、弟の嫁から息子のことではそちらさんにお手数をおかけしたことを聞きました。弟が『全部、ワシに任しとけ』と言うもんですから、すっかり安心してましたんですけど、そちらさんにご迷惑かけたんと違いますやろか?」
お母さんは随分と恐縮されていました。
「いえいえ。で、息子さんはお元気ですか?『真犯人』の方は目処がついたんでしょうか?」
「ええ、息子の方は何とかがんばっておるみたいですけど。例の『真犯人』の方は、今、弟が話しているみたいです。何とか名乗り出るのを承諾してくれればよろしいんですけど…」
お母さんはしみじみそう言いました。
叔父さんのタイプは、結局最後まで好きになれませんでしたが、私もお母さん同様、真犯人が名乗り出てくれる気になってくれるのを心から望んだものでした。

<終>