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駆け落ち先でお世話になった方を・・・(2)| 秘密のあっ子ちゃん(170)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

彼が就職した後も、彼女の両親に強硬に結婚を反対された二人は、粘り強く説得しようとしましたが、いつまでたっても埒があきません。
一年後、耐えかねた二人はついに家を出ました。そして、二人のことを誰も知らない九州に身を隠したのでした。
余談になりますが、駆け落ちとか蒸発とかで遠方に身を潜める場合、関西の人間は九州へ、関東の人間は東北や北海道へ行くという傾向が多いようです。どうも、そちら方面へ向う心理が働くようです。

それはともかくとして、二人は彼女の両親に見つからないように細心の注意を払いました。見つかれば、彼女は有無を言わさず連れ戻され、再び彼に会うことは許されないのは目に見えていたからです。
しかも、右も左も分らない初めての地、福岡で、若い彼らは大変心細い思いをしました。そんな時、それとなく事情を知って、何かと助けてくれたのが、二人が住んだ文化住宅の隣のおばさんだったのです。年のころなら四十才前後、ちょっと太めのサバサバとした明るい人でした。
彼女が探したいというのはそのおばさんだったのです。
おばさんは二人の様子で事情を察しているようでたが、彼女達には面と向かって事情を聞くようなことはありませんでした。それどころか、二十才そこそこの若い二人のために、何も言わず何かと世話を焼いてくれたのでした。

『野菜はどこの八百屋が安い』とか、『ちらし寿司を作ったので食べなさい』とか、それはもう本当に親身になってくれたそうです。彼が事故にあい、骨折して入院した時などは、パートに出ている彼女に代って、母のように看病に通ってくれたと言います。『それから二年程して、子供が生まれました。それで、私の両親もあきらめたのか、私達は許されて大阪へ戻ることができたのです。主人は父の会社に入り、今では経営も継いでいます。その父も三年前に亡くなり、あの時生まれた息子も二人の父親になっています。あれから三十五年も経ってしまって、おばさんはどうされているのか・・・このごろは、夫婦でよくおばさんの話をするのです。是非、もう一度会って、あの時のお礼が言いたいのです』
彼女の依頼はこういうことでした。おばさんは、現在ならおそらく七十五才くらいになっておられます。
彼女は、おばさんがご健在かどうかをひどく気にしていました。私達は依頼人の急ぐ気持ちを酌んで、すぐさま調査に取りかかったのです。
幸い、彼女はおばさんのフルネームもご主人の職業やお子さんの年齢、おばさんの実家がどの辺かなど、かなりのことを詳しく記憶してくれていました。お陰で、おばさんの長男の所在がスムーズに判明してきました。
私は早速、息子さんの家に連絡を取りました。

『僕はまだ小学校低学年だったので、その人のことはよく覚えていませんが、母ならそういうこともしたでしょうねえ。何しろ、とても世話好きな人ですから。いろいろなことで、お礼に来られた方もこれまで何人もいらっしゃいました』彼はそう言いました。
息子さんの話では、おばさんは、一緒に暮そうという息子さんの申し出を断わり、ご主人が亡くなった後もずっと北九州で一人住いをされているということでした。
私達は、小倉に住むおばさんを直接訪ねました。『ああ、ああ、覚えてますよ。二人が晴れて大阪へ帰れた時は、自分のことのように嬉しかったですよ。そうですか。元気にされてますか。よく覚えて下さってて、探してくれるなんて、有難いことです』おばさんは、少し耳が遠くなっていて聞きづらそうにされながらも、私達の話を一所懸命聞いて、そう言われたのでした。
そして、初孫の結婚が決り、その若い二人を見ていると、あの当時の依頼人夫婦の姿を思い出していたのだとも話されたのでした

<終>

駆け落ち先でお世話になった方を・・・(1)| 秘密のあっ子ちゃん(169)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

ある日、五十才過ぎの上品な話し方の女性から、問い合わせが入りました。
『初恋の人でなくても、 探してもらえるんでしょう か?』
『探される目的にもよりますが、心に残っている思い出の人なら、初恋の人でなくてもお探しさせていただいていますが』と私。
「実は、昔お世話になった同性の方なんですが・・・」
彼女の話はこうでした。 三十五年程前、彼女は愛した人がいました。彼女が 十九才、彼が二十才の時の ことです。
二人は固く結婚の約束をしていましたが、彼女の両親に強く反対されたのでした。若すぎるということと、彼がまだ大学生だったからです。
彼の両親の方も、当然その時点での結婚を反対しま したが、彼の粘りで『卒業して就職し、一人前になったら』という条件で許しを 得ることができました。 彼が卒業するまでの間、 二人は待ちました。

二年後、無事彼の就職も決まったある日、彼は結婚の許しを得に、もう一度彼 女の両親を訪問しました。 しかし、答えは『ノー』 でした。理由はと言えば、 『就職が決まったと言 っても、まだ一人前では ない。結婚はまだまだ早い!』と彼女の父親。
『では、いつになれば 許してもらえるんですか ?』と彼。
『そんなもん、分らん』
『それでは待ちようがありません。まだ早 いということの他に反 対される理由があるんで すか?』
『・・・。』

それからも二人は、粘り強く彼女の両親の説得に努めましたが、半年たっても一年たっても一向に埒があきません。
一年が過ぎた春のある 日、二人はついに家を出 ました。駆け落ちをしたのでした。

彼女の両親は彼の親に 怒鳴り込むやら、血眼に なって二人を探すやら、 それは大騒ぎだったそう です。
しかし、二人は彼らのことを誰も知る人のいな い九州に身を潜めたのでした。

<続>

もう一人の戦友のゆくえ(2)| 秘密のあっ子ちゃん(168)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

つい先日、募集広告で金だけ取られて広告は出 されずじまいだったという経験を持つ依頼人(73歳)は、当社に対しても 最初から疑いの目で見ていました。
『ご自分の目で確かめられてから、ご依頼してください』という私の返答に対して、彼はすぐに当社にやってきました。相変わらず、『大丈夫 でしょうな』と念を押します。『丁稚奉公で鍛えられ、先日にもそういう経験をしているのなら無理もないか』と私は根気 よく対応をしていまし た。
それで彼は納得したのか、一時間ほどあれこれ 聞いた揚げ句、結局依頼されていったのです。
調査は、その戦友の出身地である青森か秋田の同姓の人の聞き込みから始まりました。片っぱしから聞き込んでいく中 で、ついに戦友の親族にぶつかったのです。
彼は健在で、宮城県で 農業を営んでいました。
私たちは早速、その戦友にも連絡を取ったので す。彼もまた、依頼人の名を聞き、驚かれたのと同時に懐かしがられ、非常に喜んでくれました。私たちも、これで依頼人の最初の疑念も解けて、喜んでくれるだろうと思ったのは言うま
でもありません。
勇んで連絡を取ると、 彼は三十分もたたないう ちに当社へやってきました。
報告書を見て、あれこれと質問をします。
『はあ、宮城におりましたか。簡単でしたやろ?』
私は一瞬ムッとしてしまいました。 いくら商売とはいえ、この手合いが一番ムカつくの です。
依頼時に内容を話した上で、『簡単な調査やろ』という人がたまにいま すが、調査が簡単かどうか は結果が出てみないことに は分からないものなので す。あまりしつこく『簡単 やろ』と言う人には、私は 『それほど簡単なら、ご自 分でなさっては如何ですか ?』と言います。すると大概は『いやいや、自分で できないから・・・』と慌てて 訂正されるのですが…。 『ご存知のように、部隊の方では住所不明になっていますので、手掛かりは青 森か秋田の○○さんという ことしかありませんでした。簡単どころか、大変で したよ』
私はムカつきを表情には 出さず、できるだけ丁寧に言いました。
『そうでっか? で、今 は何しとりまんねん?』
『農業をされておられるようです。先方も大変喜ば れておられました。日中は 畑に出ていることが多いの で、連絡は夜にほしいとお っしゃっておられました』
『ああ、そう。ところ で、この住所に間違いない でっしゃろな?』
『ええ、間違いありませ ん。ご本人にも確認してあ りますので』
『念のために、電話貸してもらわれしませんか?この電話番号で間違いないか確かめますわ。
電話料金は払いまっさかい』 私はそれまで二千件近くの依頼を受けてきていましたが、
そんなことを言われ たのは初めてでした。ほぼ 全てと言っていいほど、依 頼人は当社に信頼を寄せてくれ、だからこそ私もスタ ッフも依頼人の想いに応え ようとがんばってきたので した。
私はこの老人に対して、『いくらこの前、詐欺まが いにひっかかったからと言 って、ちょっと度がすき る。私達は逃げも隠れもし ないのに・・・。マ、気の済む ようにしたらいいけど』と 思いながら、受話器を差し出しました。『電話代など 結構ですから、これをお使い下さい。でも、先方は今 の時間なら外出されていると思いますよ』
『いやいや、電話代は払わしていただきます』 私はこんな人ほど払う気などさらさらないのはよく 知っていました。
彼は受話器を持ち、プッシュボタンを押していま す。相手を呼び出しているようです。しばらくたって も彼は受話器を置きませ ん。
『やはり留守ですか?』 『そうみたいですな。し ばらく待たしてもらいますわ』
彼は三十分おきに宮城県の戦友の家に電話し、結局 二時間半も事務所に座り続けていたのでした。
そして当然のことのよう に、電話代は払われること はありませんでした。
やっとつながった電話口 で、彼は戦友に向かって言 っています。
『おお、俺や、俺や。元気やったか!どないして てん?お前がちゃんと 部隊に報告しとけへんかっ たから、余計な金を使わさ れてしもたわ。とりあえず、今、出先やから、もうちょ っとしてから俺とこへ電話くれるか?』
彼は戦友に自宅の番号を 伝えてから受話器を置き、 『えらいお世話さんでした』とだけ言って、そそく さと帰っていきました。
つい先日、詐欺まがいに ひっかかったとはいえ、当 社までもがそこまで疑われ て、私は当然いい気はしま せん。それに丁稚奉公でが んばってきたとはいえ、ケチくさすぎるわとも思いました。
いつもは報告した時の依 頼人の喜ぶ顔に、それまで の疲れも苦労も吹っ飛ぶも のですが、この時ばかりは、私達の疲れは倍加し、 何とも気分の悪い思いだけが残ったのでした。

<終>

もう一人の戦友のゆくえ(1)| 秘密のあっ子ちゃん(167)

 これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

大阪に珍しく雪が積もっ たその年の二月のある日、私は一人の老人(73才)から の電話を受け取りました。 彼は若いころから粉問屋ででっち奉公を勤め上げ、現在はいくつものチェーン店を持つうどん屋を経営し ています。
彼の希望は、太平洋戦争中に生死を共にした戦友を探してほしいということで した。
彼の言うには、一番仲のよかった戦友三人のうち二 人は既に連絡が取れていて、随分以前から行き来があるそうです。年に一度は みんなで旅行に出かけ、親交を深めてもいるとのことでした。ところが、三人のうちの一人とどうしても音 信が取れない。ここ何年間 か、他の戦友達とも手分け して探したが、杳(よう)としてその消息が分からな いのだと言うのです。

彼は『死ぬまでにもう一度四人で集まって、思い出に、終戦を迎えたシンガポ ールに行きたい』と言いま した。
私は戦争体験をされた老 人のこうした話にはいつも強く心を動かされるのです が、今回も『そういうこと なら』と意気込んで依頼を 受けようとしました。

しかし、彼が最後につけ 加えた言葉は、『欺しませ んやろな?』だったのです。
『は?それはどういうこ とでらっしゃいますか?』 と私。
『いや、実は先日、従業員の募集広告を出してやると言ってきた人に、広告は 一行も出してくれんと金だけとられましたんや。お宅 はそんなことはおませんや ろな?』
私はそういうことかと納 得しました。
『ウチは着手金をいただくだけいただいて、調査をしないなんてことは絶対にありません。そんなことをしていたら、何十年もここでこの商売をやってはおれません。 もしご心配なら、近くのことですし、一度お越しになってお確かめになってからお決め下さっては如何ですか?』
私はそう答えたのでした。
それから一時間もしない うちに、その老人は当社を 訪ねてきました。

<続>