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奥さんの家出(1) | 秘密のあっ子ちゃん(117)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

あれは三年前の冬のことです。丁寧な口調で話す男性から調査の問い合わせの電話がありました。年の離れた若い妻の行方がひと月程前から分からなくなったと言うのです。
「もう少し詳しくお話を聞かないことには…」と私が答えると、彼は三十分もしないうちに我が事務所にやってきました。ドアを開けて彼は入ってきたとき、私は思わず「ウッ」と息を飲んでしまいました。
というのは、電話での丁重な口調とは裏腹に、彼の風貌は“その筋の人”そのままだったのです。しかし、風貌だけで人を判断するのも失礼なことで、とにもかくにも上っていただき、彼の話を聞き始めました。
彼と奥さんとは十八歳違いだと言います。つまり、彼ということでした。
そこまで聞いた時点では、私は彼のその風貌から少し(というより、大いに)偏見を持って、彼の方に問題があったのではないかと思ったものです。
しかし、話を聞き進むうちに、それは私の偏見であることが分かってきました。
奥さん(といっても、まだ入籍はしていないのですが)は、在日朝鮮人三世で、彼女の父親は日本人との結婚に大反対していました。
「日本人と結婚しても苦労するだけだ。結婚相手は同胞に限る」というのがその理由です。年が若くても儒教精神の強い家庭であれば彼女としてもなかなか父親には逆らいにくいものです。しかし、このままでは二人は籍を入れることがままならず、いつまでたっても「同棲」という形をとっていなくてはなりません。彼女は、いずれ生まれてくるだろう、子供の籍のことも不安に感じ、悩んでいたのでした。
彼はさらにこう続けました。
「実は、見ての通り、昔は組関係の者だったんです」
ああ、やっぱりと私は思いました。
「今はまじめに生活していますけど、向こうの父親はそれも気に食わないようですわ」
在日朝鮮人三世である彼女の家出は、父親が日本人との結婚に大反対であること、そのために将来生まれてくるであろう子供の籍がどうなるか分らないこと、彼が昔、暴力団であったため、父がなおさら結婚を許さないだろうというようなことに、二人の将来を悲観し、悩み続けることに疲れ果てたことが、どうやらその原因のようです。
彼は言いました。
「父親に反発していたんで、アイツは実家へは戻らないと思いますわ。金をほとんど持って出てないから、ちゃんとやっていけてるんか、それが心配で…」
彼女の所在の確認はかなり難航しました。
実家や親戚筋は彼女が連絡を取っていないために本当に知らないのか、あるいは彼を警戒して言わないのか、ここからは全く彼女の足取りはつかめません。
彼女は同棲する前にはクラブで働いていたということから、キタやミナミにも写真を持って聞き込みに回りました。
ひと月ほどの人探しの調査の甲斐があって、やっと友人関係から彼女が働いているスーパーが判明してきました。 その矢先、彼女から電話があったと、彼から私達に連絡が入ったのでした。

<続>

養父の隠し子は今…(2) | 秘密のあっ子ちゃん(116)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

 「今、ここで、あなた達を路頭に迷わすようなことがあれば、私は死んだ養父に顔向けできません」
 依頼人(現在八十八歳)は養父の隠し子の上の娘にそう反論しました。
 しかし、彼女は重ねてこう言ったのです。
 「お気持ちは本当に有り難く思っています。でも、これ以上、血の繋がっていないお兄様にご迷惑をかけるのは、母が納得しないと思います。お父様が亡くなった今は、お店ももうお兄様の代になっていますし……。幸い、私の主人が優しい人で、全ての事情を分かって私を迎えてくれていますので、主人が母と妹の面倒を見ると言ってくれているんです」
 彼女はそこまで話すと、奥から店の方へ行き、ご主人を呼んできました。ご主人とは婚礼の時に顔を合わせていましたが、こうして一対一で話すのは初めてでした。
 依頼人はご主人とひとしきり話し込んだ後、彼女の母、つまり養父の妾だったその女性の心情を察して、二人の世話をご主人に委ねることに決めたのでした。 その後しばらくは彼女から折々の季節の挨拶を受け取っていましたが、戦局が悪化してくると、その音信も途絶えてしまいました。
 依頼人が昭和十八年に再召集され、戦局も日々悪化していくと、彼女達の音信も途絶えがちになっていきました。店の一切は古くから勤めてくれている番頭に委ねて、彼は戦地に赴いたのですが、復員後、番頭から聞いた話では昭和十九年の秋頃から彼女達の消息は全く分からなくなったということでした。 しかし、今回は彼女達を探すどころではありませんでした。店は空襲で焼かれ、使用人達もある者は戦死し、業務を再開する目処すら全くつかなかったのです。こんな状態であれば、遠縁を頼って疎開している使用人を呼び戻すこともできません。
 彼は残った番頭と復員してきた若い二人の四人で、とりあえず商売になることなら何でも手当たり次第に活動を始めました。
 五年が過ぎ、十年が過ぎ、何とか商売も格好がついてきて、これなら老舗の暖簾も守っていけると感じた頃、彼は彼女達を探し始めました。
 しかし、心当たりのある所を八方手を尽くして探しても、彼女達の消息は杳として掴めませんでした。上の娘が嫁いだ小間物問屋は空襲には遭っていなかったものの、空家同然となっていました。
 戦後の混乱期をなんとか乗り越え、昭和三十年代になると、依頼人は旧態然とした老舗の経営体制を改めて、店を株式会社にしました。
 商売がこうして少し落ち着ついてくると、彼は彼女達母子を探し始めました。 しかし、どんなに手を尽くしても、その行方は杳として把めませんでした。上の娘が嫁ついだ小間物問屋も今はなく、そこには見ず知らずの人が商いを営んでいました。何でも、ご主人が戦死した後、番頭が中心となって店を売り払い、使用人がそれぞれに分配を受け取って散り散りになっていったというのが近所の話でした。妻である彼女とその母がどこへ行ったのかを知る人は誰もいませんでした。 
 彼は彼女達を探すのは断念せざるを得ませんでした。 それから四十年近くが経ちました。
 厳しい繊維業界の中で、彼は会社の存続を賭けて奮闘してきました。紆余曲折はあったものの、会社は何とか順調に発展し、十九年前に彼は引退しました。彼もまた子宝に恵まれませんでしたが、引退後は妻と二人で悠々自適の生活を送り、それなりに充実した晩年を過ごしてきました。
 しかし、妻が他界すると一挙に淋しさと孤独感が襲ってきたのでした。
 彼が当社にやって来た時、私達にこう言いました。
 「彼女達を生んだ女性は現在なら九十九歳か百歳くらいになっていると思います。その人は既に亡くなっている可能性もありますが、彼女達の消息だけは是非とも知りたいと願っているんです。彼女はおそらく七十五、六歳だと思います。もし、彼女自身も亡くなっているんでしたら、その子供達を探してほしいのです」 私は彼の願いを十分理解できました。しかし、唯一の手掛かりであった、彼女が嫁いだ小間物問屋が昭和二十年代に離散しているのであれば、易い調査だとは決して思われませんでした。 唯一の方法は役所に掛け合うしかありません。私達は依頼人の委任状を得て、すぐさま役所に出向いたのでした。
 私達は依頼人の委任状を得て、役所に出向きました。彼女が依頼人の養父の娘であることは間違いないのですが、彼女は養父の子供として今は籍が入っていないため、依頼人と彼女の関係は戸籍上、全く赤の他人となります。ですから、いくら委任状を得ているからと言っても、私としても役所側が「ハイ、そうですか」と易く彼女の籍を見せてくれるとは思っていませんでした。
 結果はやはり予想どおりでした。私達は役所に日参することになりました。依頼人と彼女の関係、結婚前に彼女は一旦養父の籍に入っていること、それに依頼人の心情を懇々と説明したのでした。
 何回目かにスタッフが出向いた時、いつもの係員の上司が対応に現れ、こう言いました。
 「原則的にはお教えすることはできませんが、事情も理解できるので調べてみましょう。但し、戸籍自体はお見せできませんので、こちらで調べてお教えさせていただきます。養父という方の本籍から彼女の嫁ぎ先の本籍を調べ、その上で戸籍附票を見てみましょう」 戸籍の附票というのは、その人の住所地の変遷が記載されたものでした。
 役所はまず依頼人の養父の本籍から改正原戸籍を見、彼女が嫁いだ先の本籍を確認してくれました。次いで、その嫁ぎ先の本籍の管轄の役所に連絡を入れ、彼女の戸籍の附票を取り寄せてくれました。 こうして、彼女の消息が明らかになってきました。 彼女はまだ健在で、現在は宇治市に居住していました。夫が戦死した後は、三人の子供を立派に育て上げ、今は長男夫婦と孫達と同居していました。
 ところが、ここで思わぬことが発見されたのです。依頼人は養父の子供達は二人だと言っていましたが、実はその下にまだ二人の子供がいて、合わせて四人だったのです。これは、依頼人自身も知らない事実でした。 この内容を報告すると、依頼人は大層喜んでくれ、特に彼女がまだ健在だということには大変感激していました。
 「宇治と言えばそれ程遠くはありません。早速にも連絡を取って、会いに行きたいと思います。あれから五十年以上も経って、お互い年を取りましたが、逆にこの年になって、身内の消息が掴め、本当に嬉しい限りです」
 彼は最後にそう言ってくれたのでした。

<終>

養父の隠し子は今…(1) | 秘密のあっ子ちゃん(115)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

今回の調査の主人公は、今年米寿を迎える男性です。
彼は十歳の時、遠縁にあたる繊維問屋に養子に入りました。この繊維問屋は何代も続く老舗で、跡取りがなかったため、是非にと請われて、六男であった彼が養子になったのでした。
養父は豪気な人で、商売の才覚も合わせ持っており、彼が養子に入った昭和初期には店はかなり繁盛していました。養母は優しい人でしたが、病弱で、それ故に子宝に恵まれず、早い時期に亡くなっています。
彼は戦後、養父の跡を継ぎ、店を切り盛りしてきました。昭和三十年代には、旧泰然とした老舗の経営体制を改め、株式会社にしました。その後、厳しい繊維業界の中で、様々な生き残り策を模索し、会社を存続発展させて、十九年前、六十九歳の時に引退しました。彼もまた子供には恵まれず、会社は長年、自分の片腕として勤めてきてくれていた、当時五十三歳の常務に譲ったのでした。仮に彼に子供がいたとしても、同族に跡を継がせるという気持ちは、法人にした時からまるで持っていませんでした。
妻には既に先立たれていましたが、その後、彼は悠々自適の生活を送ってきました。しかし、一つだけ気掛かりなことがあったのです。
子宝に恵まれず、妻に先立たれて一人きりになっているとはいえ、彼は会社を後継者に譲った後は悠々自適の生活を送っていました。 しかし、一つだけ気掛かりなことがありました。それは、養父が奉公に来ていた女中に生ませた隠し子のことでした。
当時、彼は養子に入ったばかりである上に、十代前半という若さも手伝って、詳しいことは聞かされていませんでした。が、大人達があたふたと動き回っていた様はありありと記憶に残っていました。
その頃、養母は既に床に就いたきりでした。まだ四十代前半の養父は、行儀見習いの奉公に来ていた若い女中に手をつけ、その結果、女の子が生まれました。まだ祖父が健在だった頃で、祖父はその女中に小さな家を与え、養父に生活の面倒を見させました。その後、もう一人女の子が生まれたと、彼は記憶しています。 養母が亡くなった後、その女性を後添えにという話も上がりましたが、祖父は頑としてこれを受け入れず、二人の女の子は養父の隠し子として育てられたのでした。しかし、養父は度々この家に通い、二人の女の子を慈しんで育てました。
それから二十年近くが経ち、依頼人(現在八十八歳)の養父の二人の隠し子達は適齢期を迎える頃になりました。二人のうち、姉の方に分家筋の勧めで、京都の小間物問屋への嫁入り話が進んでいました。
しかし、「隠し子」や「私生児」という出生では、歴とした老舗へ嫁に出すには如何にも具合が悪く、養父は二十年以上も妾として暮らしてきた二人の母を正式に後妻として入籍させました。彼女を後添えに直すことをあれほど反対していた養祖父も既になく、入籍は誰の反対に合わずに、スムーズに取り行われたのでした。
ところが、養父は入籍しても、なぜか彼女を家に迎えようとはせず、娘の婚礼が滞りなく済むと、どうしたことか、すぐさま彼女を籍から抜いたのでした。
依頼人はこの辺りの事情を出征していた中国大陸から戻ってきた後で身内の者に聞かされました。彼は養父のやり方を理不尽だと憤りましたが、抗議しようにも、養父は既にこの世にはありませんでした。
上の娘を嫁がせてしばらくした頃、養父は急な病で没していたのでした。
依頼人(現在八十八歳)が中国大陸へ出征している間に起こった出来事は、全て彼が帰還してから聞かされました。しかし、当の養父も彼が中国にいる間に急な病で死亡しており、憤りを感じて抗議したくても、今更どういう考えでそうしたのか聞くことさえもできませんでした。
養父が亡くなった後も、彼女達の生活費は番頭がきっちり送金していましたが、半年が経った頃、養父の妾であった例の女性が挨拶にやって来たと言います。それは、「旦那さんが亡くなった今となっては、これ以上お世話をかける訳にはいかない」という内容のものでした。
番頭は、若旦那さん、つまり依頼人も出征中のことである故、そのことは帰還されてからゆっくりと若旦那さんと話し合えばよいと引き止めたのですが、程なく、彼女達は養父が与えた家からも姿を消したということでした。
帰還して、全ての事情の一部始終聞いた彼は、姉の方の嫁ぎ先を訪ねました。 彼女はこう言いました。 「これまでのご恩は決して忘れません。私もこうして立派な所に嫁に出させていただきました。でも、もうこれ以上ご迷惑をかけることはできないと思っているのです」
復員後、番頭や分家の者から全ての事情を聞かされると、依頼人はすぐに養父の隠し子のうち、上の娘の嫁ぎ先を訪ねました。彼は、既に老舗に嫁いでいる彼女はともかくとして、その母と妹の今後の生計を心配していました。
しかし、彼女はこう言ったのです。
「お父様が亡くなり、母ももうこれ以上ご迷惑をかける訳にはいかないと申しております。これまで、十二分なことをしていただき、私もこうして立派な所に嫁つがせていただきました。これまでのご恩は決して忘れません」
「だけど、あなたはともかく、お母さんや妹さんのこれからの生活はどうされるんですか? 私のことを気にしてくれているんでしたら、それは構わないんですよ。もともと、私だって養子の身。十歳の折、私が養子に入る前にあなたが生まれていたなら、本来はあなたが跡取り娘なんですから。ここで、あなた達を路頭に迷わすようなことになれば、私は死んだ養父に顔向けができません」
依頼人は反論しました。 しかし、彼女は重ねてこう言いました。
「お気持ちは本当に有り難いですが、それでは母が納得しないと思います」

<続>

戦争に行った彼(2) | 秘密のあっ子ちゃん(114)

これは平成6年より大阪新聞紙上にて連載していた「秘密のあっ子ちゃん」に掲載されたエピソードより抜粋したものです。なお、登場人物は全て仮名で、ご本人の許可を得ております。

彼の消息は、出征以来、全く途絶えています。
無事、戦地から戻ってきたのだろうか?今も元気に暮らしているのだろうか? そういう想いが頭から離れませんでした。そして、次には息苦しくなる程いつも胸を締めつける想いが湧き上ってくるのです。
もし、あのまま戦死していたら?
やりきれませんでした。 彼女は娘さんを伴って当社にやってきました。
最後の会話を私達に話すと、彼女は「信頼してもらっていたのに、申し訳なくて…」と、涙ながらに言いました。
私は彼女のこの五十年間の悔いを思うと、異物が胃の中に沈殿していくような重く暗い気持ちになりました。彼女も七十才、今世の最後に迎える時に、今のままの気持ちではあまりにも辛いだろうと思えました。せめて、晴れ晴れとした気持ちであちらに行きたいだろうと…。
彼を探す人探しの調査は難行を極めました。
当時の住所地が分っていたとしても、何しろ戦前のこと故、今もまだそこに住んでおられるとは考えにくいことでした。案の定、調査の結果はそんな名前の住人はそこにはいませんでした。その地域の寺にも聞き込みに入りましたが、彼の苗字での檀家は存在しません。
次に、私達は彼の出身学校に聞き込みに入りました。その学校は、戦後、新制高校なり、今は名称も変っています。
事情を理解して下さった教頭先生は、古い書類を倉庫から引っ張り出し、あれこれと調べ始めてくれました。
彼女が覚えている彼の苗字は「伊藤」でした。下の名前は覚えていません。  彼が卒業したという年度の前後を、教頭先生が丹念に調べて下さったのですが、「伊藤」という名はないのです。唯一、「伊東健一」さんという人のみが存在していました。
伊東健一さんの名簿欄には、「大正十四年生、昭和十九年三月卒、鹿児島予科練甲飛十三期、戦死」と記載されてありました。
教頭先生は、「当校出身者であることが間違いなければ、この人しかいません」 とおっしゃったのでした。
その年度前後の卒業生で、イトウという人はこの人しかいません」
教頭先生はそう教えてくれました。
出身学校が彼女の記憶違いでなければ、「伊藤」が「伊東」であっても、この人に間違いないと私達も確信しました。
しかし、彼女の意見は違ったのです。「絶対に『伊東』ではありません。『伊藤』です。思い違いなどはありません」そう言い張りました。
「それでは、学校が記憶違いということなのかもしれませんねぇ…」
ふと漏らした私の言葉に、彼女は目を剥かんばかりに、「いえ!学校も間違いありません!」と言い切るのです。
伊東健一さんが戦死されている今となっては、ご本人に確かめようもありません。
その後も私達は全ゆる手を尽くしました。彼の出身地の伊藤姓はもちろんのこと、国の機関や旧軍関係、はたまた靖国神社にまであたってみたのでした。
結果は、彼が出たという学校の「イトウ」さんとはどうしても全て「伊東健一」さんに繋がるのでした。
そうなると、私達の方が却って、消化不良のような納得いかないものが残っていったのでした。
「伊東」ではなく、絶対に「伊藤」だと彼女は言い張るのですが、どう調査しても、彼女が言う人に該当するのは「伊東健一」さんでした。
こうなると、私達の方が消化不良を起こしてしまいます。そこで、私達は健在である伊東健一さんの弟さんを探し出しました。
「一度、弟さんに当時のことを詳しくお聞きになられては如何ですか?そうすれば、ご本人であるかないかがよりはっきりすると思いますが…」私は彼女にそう提案したのです。
しかし、彼女は相変わらず頑なでした。
「彼は『伊東』ではないのだから、弟という人に会いに行く必要もない」こうです。
人は年を重ねると頑固になると言いますが、彼女の場合は五十年前のうら若い乙女の頃もこんな風に頑迷であったのではないかと、私は思い至ったのです。
その頑迷さが五十年間の悔いを残してきたというのに、彼女は相も変わらず頑くなでした。
彼女がその頑くなさを引きずっている限り、「悔い」は決して消えることはないだろうと、私はそう思いながら、彼女の言葉を聞いていました。

<終>